『実隆公記』に明応の大地震を発見
私が「はじめてのおつかい」に出たら、、おつかいの最中に興味をひかれるものに出会い、ことづかったミッションを忘れ、寄り道しちゃうタイプだと思います。
雪の結晶を「六出」と表現した文献を追っています。室町時代の『実隆公記(さねたかこうき)』も「六出」の記述があると小林禎作さんの著書で知りました。その記載をただ自分の目で確かめたかっただけなのに・・・・・
『実隆公記』があまりに興味深くて、「六出」の記載は確かめ終えたのに、つい目を通してしまっています。
全20巻の8巻分は制覇。
第一弾(2011年1月27日)、第二弾(2011年1月30日)につづき、貴重な記述を発見しました。それは巻三下。
実隆は明応の大地震を体験していたのでした!
表現からこの地震の凄さがわかります。その文章をご紹介する前に明応の大地震のおさらいを。
明応の大地震は明応7年8月25日(西暦1498年9月20日)に起きた地震。周期的に発生するといわれている大地震(東海地震、南海地震、東南海地震)の、過去事例をさかのぼる時に名前が挙がる地震ですね。
東京大学地震研究所彙報に羽鳥徳太郎氏が書かれた論文「明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源」 (ttp://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12593/1/ji0502002.pdf)にこう書かれています。要約で。
明応7年8月25日(1498年9月20日)、朝8時ごろの大地震は房総から紀伊半島東岸に至る広域に地震・津波の大被害を与えた。
地震の震央は東海道沖で、マグニチュードMは最大級の8.6。
明応津波では浜名湖が切れ、今切という地名を残した。
実隆のいる京都は震源から離れているわけですがどんな様子だったのでしょうか。
『実隆公記』(巻三下)の明応7年8月25日の日記でこう書かれています。
早朝地震大動、五十年以来無如此事云々、予出生以来未知如此之事。
<私の訳/早朝に大地震があった。50年来こんなことはなかったそうだ。私は生まれてはじめての経験だ>
この時実隆は43歳。大地震の周期から考えても生まれて初めての経験なのはあたりまえでしょう。
興味深いのは翌日26日の日記です。地震のことも触れる一方で、伊勢物語の新写本を甘露寺に届けたようなことが書かれているのです。
未曾有のことなのに、いつも通りのこともしていたのですね。
この地震の前兆現象などはなかったのでしょうか。続きは2月17日に。
(2011.5.19追記。理科年表で明応の大地震についての記載をみてみました。引用部分青字)
地震No.61。西暦1498年9月20日。明応7年8月25日。M8.2~8.4。地域:東海道全般。被害摘要:紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で震動が大きかったが、震害はそれほどでもない。津波が紀伊から房総にかけての海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流出1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千など、南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。
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