『日本三代実録』に貞観地震の記述を探してみました
平安初期に、2011年東日本大震災と重なる地域で、甚大な被害をもたらした地震、貞観地震、貞観の大津波があったことを新聞で知りました。
『日本三代実録』に貞観地震について記述があると聞き、図書館で『訓読日本三代実録』訓読者武田祐吉、佐藤謙三(臨川書店 1986) 』を借りてきました。
『日本三代実録』は歴史書。国の役人の人事、行事、地震、疫病などについて記されているのですが、その一方、雷、流星、日蝕などの気象・天文現象も頻繁に書かれています。
昔は、まつりごとに天文現象の吉凶が大きく影響したのでしょうね。だからこそ陰陽師も活躍したんだろうなとあらためて感じました。
まず、貞観地震(貞観11年5月26日/西暦869年7月13日)についての記述を紹介します。
1)引用部分は青字。
2)【】はページの上につけられている見出しを私がピックアップ。
3)漢字につけられたルビを参考に一部、私が現在わかりやすい漢字に直しています。記録の日付も漢数字をアラビア数字に直しました。
4)日付の後の「甲子」などの表記は省きました。
また、例によって、古文や日本史に詳しくない私が書いています。解釈も少し自信ないです。
興味ある方はどうぞ、現物でお確かめください。
4)貞観の大地震に関して
(「理科年表」では⇒No.20。西暦869年7月13日。貞観11年5月26日。M8.3。三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約一千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる)
貞観11年5月26日【 陸奥国に大地震 津波あり】
陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝洄)き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてをわきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たから(資産)も苗もほとほと残るもの無かりき。 p454
1100年ほど前に、同じように甚大な被害がおきていたのですね。記述に身がすくむ思いがします。
その後、この地震について記載されている場所をいくつか挙げますと。
貞観11年9月7日【検陸奥国地震使を任ず】
検地震使というのは、平安時代、臨時に震災地に派遣して被害状況を検分させた官使のこと。紀朝臣春枝が陸奥国の地震を検する使い任命されたことが書かれています。
貞観11年10月13日【陸奥国の震災を慰問せしめ給ふ】
詔して宣ひけらく、として書かれた言葉の中に陸奥国の地震がでてきます。清和天皇の勅命ということでしょうか。
地震の被害の大きさの報告を受けたことを述べたあとに
「百姓何の罪ありてか、この禍毒に罹ふ。憮然としてはぢ懼れ、責め深くわれ(予)に在り。 (私による中略)。
その害を被ることはなはだしき者は、租調をいた(輸)さしむるなかれ。鰥寡孤独(かんかこどく=身寄りもなく孤独な人)の、窮して自ら立つ能はざる者は、在所に斟量(しんりょう=事情心情をくみ取る)して厚く支えたすくべし。務めてきんじゅつ(衿恤)の旨を尽くし、朕みづから観るがごとくならしめよ」 p463
とあります。 租調は米と絹などの織物を納めていたと当時の税ですね。租調をいた(輸)さしむるなかれ は 、納めることを免除させなさいという意味かしらと。
被災された人の事情や気持ちをおしはかって、手厚く支えてあげてほしいという強い思いを感じました。
このあと、みことのりは10月20日にも出ています。こちらは肥後国の水害に対してです。
貞観11年12月14日【災害異変により伊勢大神宮に奉幣す】
いくつもの災害や海賊のよる被害などが続いているために、天皇が伊勢神宮に使者を派遣し、わざわいを鎮め平安をもたらす奉幣をしたことが記されています。
その告文の中に、肥後と陸奥国の地震のこともでてきます。そこを抜粋・
「肥後国に地震風水(かぜあめ)の災いありて、家ことごとくに倒れ、くつがえり、人民多に流れ亡せたり。かくのごとき災い、いにしへよりいまだ聞かずと、おきなたちも申すと言上したり。しかる間に陸奥国また常に異なる地震の災い言上したり」。
この告文の最後は
「天の下、躁驚なく、国の内平安に鎮め護りたすけ賜ひ、皇御孫命の御體を、常磐堅磐に、天地月日と共に、夜の護り昼の護りに、護り幸へめぐみ奉り給へと、かしこみかしこみも申し賜はくと申す」
こういう過去の歴史書は記録をまとめた事務的なもの、「想い」が見えるとは考えていなかったのですが、被災者の方達の苦しみをなんとか減らしてあげたいとする詔(みことのり)の切なる思いが1000年余りの時を超えてドーンと伝わってきました。
平成の時代。大変な思いをされている被災者の方達に、みんなが何かをしたいと思い(私も微力ながらできることをして)、その一方で、テレビで映し出される被災者の方達のたくましさに逆に私たちがパワーをいただいている状況。
行政を担う方達は、この詔を読んでいただきたいと思います。
(2011.5.29追記)
貞観11年12月14日の記録の中「肥後国に地震風水の災いありて~」とありますよね。
いつこの地震があったのかしらと、『日本三代実録』を読みかえしてみました。
はっきりと該当するものが見当たりません。
11年の記録ですと、7月14日に暴風雨の災害はあったことがわかりますが、地震という言葉はありません。
↓
7月14日肥後国に大風雨あり。瓦を飛ばし樹を抜き、官舎民居の転倒する者多く、人畜の圧死するものもあげて計ふべからず、潮水潮溢して六郡を漂没しい。水引きし後、官物を捜摭せしに、十に五六を失ひき。海より山に至る、その間田園数百里、陥ちて海となりき。 p458
ただ、建物の倒壊や圧死があったり、浸水してその後も土地が陥没して数百里海になったという記述をみると、ただの暴風雨とは思えないところもあります。
10月23日の詔の中にも「肥後国」は出てきます。↓
10月23日「如聞(きくならく)、肥後国迅雨暴を成し、坎徳災いをなして、田園ゆえに淹傷し、里落それによりて蕩盡しきと。 (私による略) 壊垣毀屋の下のあらゆる残屍乱骸ははやく收埋を加へて、曝露せしむべからず」 p464
坎は水を表すので、やはりここでも暴雨風による水害としか説明されていません。 が、やはり倒壊した家屋で多くの人が亡くなっていることを考えると暴風雨(超大型台風だとしても)だけが原因とは思えないような。
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貞観11年の記録で貞観の大地震以外にいくつか目に留まったものをピックアップ。
3月3日陰陽寮言しけらく、『今年夏季、まさに疾病有るべし』 p448
7月7日 地震。
7月8日 大和国十市郡椋橋山の河岸崩れ裂けき。 p458)
9月25日 地震。
12月13日 地震。
12月23日 地震。
日本三代実録 その2 その3 その4 その5 その6 その7
2011.6.12 おわびと訂正。このシリーズ、ずっと『日本三大実録』と書いていました。正しくは『日本三代実録』です。不注意でした。申し訳ありません。
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