大塩平八郎の乱と土井利位
鷹見泉石日記シリーズその7で、大坂城代土井利位(古河藩第四代藩主)が手柄を立てたのは、
一人の奉公娘がきっかけと記しました。
まず大塩平八郎の乱の概要を。
天保8年(1837年)2月19日、天保の飢饉で苦しんでいる民衆を救うために陽明学者である大塩平八郎
(大塩中斎)が民衆を率いて蜂起します。
この乱自体は当日に鎮圧されてしまうのですが、平八郎は大阪近辺各所に潜伏を続けます。
平八郎は、やがて大阪の西船場の美吉屋五郎兵衛(美吉屋の商いは手ぬぐい地仕入とも染物屋とも言
われており、大塩平八郎と取引がありました)の家に匿ってもらいます。
ですが、この潜伏先が発覚して土井利位や鷹見泉石らに包囲され、3月27日、自ら火を放ち自決しました。
なぜ、この場所がバレてしまったか。
ここで登場するのが平野郷(現在の大阪市平野区あたり)から美吉屋に奉公にきていた17歳の娘です。
彼女は美吉屋で、ご飯が不自然に無くなることを知ります。
大塩平八郎の立場から見てみますと、彼の運が悪かったことは、
その1 この娘、親が病気になって、平野郷に戻ったことです。
その時に、奉公先でのご飯の話をします。
その2 さらに運の悪いことに、平野郷は土井利位侯の古河藩の領地だったのです。
古河藩といえば、現在茨城県古河市あたりになるわけですが、
飛び地の領地を関西にも持っていて、その一つがこの平野郷だったのです。
奉公娘が語った美吉屋での話は、またたくまに土井利位侯らの耳に入り、
土井利位は町奉行与力内山彦次郎に美吉屋を探るよう命じます。美吉屋五郎兵衛は自白。
土井利位侯たちは美吉屋を取り囲み、平八郎を追い詰めます。
そして、平八郎たちは自決に至るわけです。
『鷹見泉石日記』にも大塩平八郎の乱については詳しく記述されています。
奉公娘の一言から動くことは天保8年3月26日の日記
---『鷹見泉石日記』(古河歴史博物館編著(吉川弘文館)第三巻 p201に出てきます。
抜粋します。
廿六日 晴
○八半時過頃、惣左衛門出、手紙にて尋候趣は委細は不相分候得共、
末吉藤左衛門妻へ京より中野村へ灸に参候女立寄、物語に知人勤之者
十七才之女、油掛町太物屋に奉公いたし居候処、親病気にて暇取候もの之咄に、
太物屋大塩へ揃手拭染遣候に付預に相成居候由、
朝之飯櫃に飯入、茶碗添、棚下に置候得は翌朝又出有之にて飯を入出置候事等、
平左衛門藤より申聞候由 (以下、私による略)
太字部分を私がざっと訳しますと、
17歳の娘が油掛町の太物屋(私メモ/ふとものや。麻や綿を取り扱っている店のこと)で奉公していたが、
親が病気で暇をとって戻ってきた。
その娘の話では、朝、櫃にご飯を入れて、茶碗を添えて棚下に置いておくと、
翌朝、ご飯がなくなっているのでまたご飯を入れて置いておくとのことだ。
森鴎外は『大塩平八郎』の中でこんな風に記しています。
『大塩平八郎 堺事件』森鴎外著(岩波文庫 1941 p58)より。
※旧字や云ふ→云うなど、私が直しています。
第十二章 二月十九日後の二、美吉屋 のくだりです。
とかくするうちに三月になって、美吉屋にも奉公人の出代(でかわり)があった。
その時女中の一人が平野郷の宿元に帰ってこんな話をした。
美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、
奉公人は神様に供えるのだろうと云っているが、それにしてもおさがりが少しも無い
と云うのである。
平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家と云う土着のものが支配している。
其中の末吉平左衛門、中瀬九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰った女中の話を聞いて、郷の陣屋に訴えた。
陣屋に詰めている家来が土井に上申した。
土井が立入与力(たちいりよりき)内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。
立入与力と云うのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許へ出して用を聞せる与力である。
五郎兵衛は内山に糺問せられて、すぐに実を告げた。
青空文庫で『大塩平八郎』森鴎外、閲覧可能です。
さて、土井利位はこの大塩平八郎の乱鎮圧の功績により、京都所司代に抜擢され、
天保10年(1839年)に老中に任命されるのです。
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