雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その5)息子太郎の壮絶な闘病と死
滝沢興邦太郎は、曲亭馬琴(滝沢興邦)の孫。
文政11年(1828年)2月22日に生まれますが、嘉永2年(1849年)10月9日に22才の若さで亡くなります。
ただし書きは滝沢路の日記(その2)を。
20歳の頃に感冒を患ったあと、細菌の感染による脱疸が原因のようです。
(参考資料『曲亭馬琴日記 別巻』 柴田光彦編/中央公論新社 2010)
82才まで生きた馬琴の没年が嘉永元年(1848年)。
翌年に孫が亡くなっているというところに太郎の夭折を感じ、不憫な気持ちになります。
母、路は息子太郎の壮絶な闘病を日記に綴っています。
それは馬琴の影響かもしれません。
というのも滝沢興継宗伯(馬琴の息子であり太郎の父)も闘病の末39才の若さで亡くなったのですが、
馬琴が宗伯の闘病を克明に日記に記していたからです。
滝沢路の日記(その1)でも触れましたように、
路は太郎の死の直後、日記を書けなくなってしまいます。
けれど、2週間後にふたたび筆を執ります。
その時、「日記」に対する責任感を感じさせる言葉を綴っています。
作家がエッセイの連載を休載したわけではない、
仕事で依頼されているわけではない誰にも見せない「一個人の日記」が、
彼女にとっては大切なものだったことがわかります。
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路の綴った太郎の闘病~死をとりあげる前に、まず。太郎がどんな子供だったのか。
太郎は天保6年、8歳の時に父宗伯を亡くしています。
馬琴はその後の太郎について、天保10年4月23日の日記でこう記しています。
太郎、性濶達、且、磊落。昼後、必仮寝、且、諸稽古に身を不入、今晩、聊折檻す。
吾児琴嶺に代るの慈悲也。(『曲亭馬琴日記 四』柴田光彦編/中央公論新社 2009)(p357 )
ざっくり訳します。
太郎は小さいことにこだわらないおおらかな性格だ。
昼後は必ず仮眠をし、諸稽古に身を入れない。そのため、今晩少し折檻をした。
亡くなった太郎の父親、琴嶺(宗伯のこと)に代わっておこなう慈悲である。
太郎は目が不自由になった馬琴のために書物を読んであげることもしばしばありました。
馬琴にかわって日記の代筆を路とともにおこなうこともありました。
次にあげる日記は、馬琴が晩年、太郎の容体について記した記述です。
【嘉永元年】
5月13日 風疾再発之気味にて、面部に腫物出来、咽喉・脚も少々腫候間、療治を乞ふ。
(『曲亭馬琴日記 四』p409 )
9月8日 八半時頃、太郎帰宅。処々道普請にて、道の脱落甚し。足痛にて難義之由。(p477 )
9月28日 (私メモ/太郎が)風邪にて、熱気有之、且、脚の痛所、亦腫、痛候に付、夕飯後より、早く枕に就く。(p489 )
10月3日 太郎容体、今日も替ることなし。但、邪熱は余程解候やう子にて、舌の白帯薄ぎ、尚少々残る。
昨夜も、今日も、左脚の痛所、折々いたみ候由也。 (p492)
馬琴は11月6日に亡くなっていますが、その後も馬琴の日記帳を、路や太郎は埋めつづけました。
太郎は自身の病状、灸による治療、医者の診断を下記のように綴っています。
【嘉永元年】
11月21日 夕七つ時、灸点師宇野田左門来診。則、我等客座敷に而対面。
一々容体を告、其後、灸点被施、肩より腰迄、背之中十九穴、膝之上弐穴づつ・足首壱穴づつ、
六穴、何にも弐三十火づつ、被施。
肩口より腰迄之処十九穴、膝四穴は、三日之間毎日灸治いたし、跡一二日づつ、
隔灸治いたし候様、被申之。
暮時前居畢候得ども、未歩行難敷、明朝に至候はば、急度歩行自由也と、左門は申といへども、
余は不信不審也。(p530)
12月4日 礒田平庵麻布へ源氏物語講釈に参候由に而、立寄、我等容体を問候に付、委細咄し候所、
被診脉。足之痛所、悪血溜候に付、切候方全快可速成よし、被申之。 (私による略)
磯田平庵は、外科なれば、難信用。(p538)
12月13日 我等脚之灸穴之脇より、膿水之如き血多く出候に付、追々快気に趣候なるべし。(p544 )
年が変わっても太郎は快方に向かうことはありません。
母の路はこう記しています。
【嘉永2年】
1月19日 太郎、今朝より、外黒ぼし(私メモ/くるぶしのまちがい)より踵へかけ、甚しく痛候故に、不食也。
昼・夕膳とも、一わん半づつ、食之。今日終日大痛、難義也。(p565~566)
昔の人たちは、盲腸などで<簡単に死んでしまう>ことが怖かっただろうなと思っていました。
でも昔、本当に大変のは、<簡単に死んでしまう>ことではなくて、
現代なら治癒できたり、せめて痛みの緩和ができるのに、なすすべがなくて、
<衰弱死するまで苦ししみつづけなければならない>ことだったことかもしれません。
『曲亭馬琴日記 四』の最後は嘉永2年5月30日。(p644)
路による記述です。
太郎、兎角いたみつよく、甚難義也。 と記し、
是より六月新日記へ移る と書いています。
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そして路は、嘉永2年6月から、馬琴ではなく、路自身の日記として新日記を興すのです。
新日記でも、太郎の病状は克明に記されています。
医学を学んだ方がこの日記をご覧になったら、
「現代の医学だったら治せたのに」「こんな非科学的な方法で治るわけがない」と思われるかもしれません。
それでも、昔の人は大切な家族を救いたいと必死だったのですね。
いろんな薬やおまじないを試す路と太郎。
路が息子太郎の闘病に関して綴った記録を
『路女日記』木村三四吾編校(八木書店 1994)から抜粋でご紹介します。
【嘉永2年】
7月8日 なめくじりを酢にてとき、臍下へ張候へば、是も通じよろしき由に付、是をもなめくじりを尋候て張之。
(私メモ/太郎に使用。なめくじがお通じにいいという伝承があったのですね)
7月21日 おさち、なめくじり五つ持来る。直に二つを火に炙り、太郎食させ候。
(私メモ/なめくじを貼るだけではなく、食べてもいたのですね)
8月15日 今朝、月見だんご製作致候に付、先おして起出。(私による略)伏見より唐こしキナコ・白だんご、
枝豆・くり・柿・芋添、贈来る。其後、此方よりもあづきだんご、枝豆・柿・芋添、贈遣す。
(私メモ/苦しい闘病の中でも年中行事を行っている様子がわかります)
8月19日 太郎容躰、昨日と替ことなし。天明頃より暮時迄に大便五度通ず。げざい用候故也。
(私による略)暮時頃より終夜甚しく足痛致、不睡也。
此せつ、母子の苦しみ堕獄のせめに等しかるべし。
(私メモ/太郎の痛みは想像を絶するものがあったようです)
8月22日 足痛は替ることなし。今日両度蛭を用、出血の為也。咳痰出候に付、保命丹を服用す。
(私メモ/8月29日の日記ではとこずれの様子も描かれています)
9月12日 明方、亦かうやくを張替る。兎角睡り候事まれにて、今晩終夜、惣身を撫さすり致遣す。
何分、壮年の者かかる病に閉られ、全快無心元事、不便かぎりなく、胸のみ張さく心地也。
(私メモ/太郎の苦しみを代われるものなら代わりたいと路は思ったことでしょう。
悲痛な思いが伝わってきます)
9月13日 今日十三夜祝儀、あづきだんご製作致、家廟へだんご・枝豆・くり・柿・衣かつぎ芋そゑ供し、
家内一同祝食す。
(私メモ/こんな大変な時にも「後の月」の行事をおこなっています)
9月29日 太郎、四月以来蒲団取替候間、惣身痛候由に付、羽根ぶとんを下に布、
右之上に絹ぶとん布望候に付、文蕾・悌三郎手伝、蒲団ひきかへ、其上に臥せ候。
9月30日 面部・惣身余ほど浮腫致、腹満苦痛、且床づれ甚しくいたみ、煩悶す。
10月4日 太郎、今晩痰咽喉につまり、煩悶苦痛。
皆々看病、竹歴其外薬を用い、手当致候へば、暫して納る。おつぎも終夜看病す。
10月8日 夜に入、あづきあんかけ・白粥少々食す。今晩は兎角痰切かね、床づれ痛み候て苦痛す。
(私による略)当月三日以来太郎弥危胎(私メモ/胎は誤字)に付、愁傷大方ならず。
(私メモ/とうとう太郎は9日に亡くなります)
10月9日 今朝五時過より太郎煩悶甚敷、母・悌三郎・おさち等色々手当致候得ども其かひもなく、
終に巳の上刻、息絶たり。時に享年廿二歳也。
夫より家内愁傷大かたならず、昆雑いふべくもあらず。(私による略)
10月9日の日記の後半で葬儀のこと、9日以降のことが記されています。
がこれは10日~22日のブランクを埋めるために後になって記入したもの。
路は心痛のあまり、10月22日まで筆をとることができませんでした。
路はそのことを自身の言葉でこんな風に綴っています。(その2)を参照。
詳に記し度おもへども、九日以後愁傷腸を断心地して筆とることもいとはしく、
後の為にと日記しるさんと筆とり候得ば胸のみふたがり、一字もかくことかなはず。
其故に久敷内捨置し程に、九日以後人出入も多く、婁々忘れしゆへに省きて印さず
(私メモ/「記さず」の書き間違いか)。心中察すべし。
(私による略)
蓑笠様(私メモ/馬琴のこと)是迄被遊候御心中に背候も不本意に存候に付、思かへして、
又、廿二日より涙ながらに記すもの、左之如し。
10月9日の後、22日まで日記を書くことができなかった路ですが、私が驚いたのは
路が日記を放置していたことを「久敷打捨置きし(ひさしくうちすておきし)」と書いていることです。
現在、2週間ぐらい日記を休んでも「ひさしく」と思う人はいないでしょう。
いかに路が、<毎日日記を書き続けること>=滝沢家の責務と自覚していたかがわかる言葉です。
嘉永3年10月8日は一周忌のお墓参りの様子が書かれています。
嘉永5年2月7日の日記では 知人の子供が四才で病死したことを記し、
両親の歎、想思すべし。と書いています。
我が子に先立たれた者の哀しみを身をもって知っている路の思いが伝わってきます。
嘉永6年10月8日 では太郎の逮夜(私メモ/たいや。命日の前夜)ではお供えの料理について。
料供、茶飯・一汁二菜、平(八つがしら・(私メモ/判読できない文字あり)・生あげ)、
汁(里芋・にんじん・しやけ・ささげ)、猪口(にんじん・こんにゃくごまよごし)料理いたし、
琴嶺(私メモ/路の夫宗伯のこと)様牌前ならびに琴靍(私メモ/息子太郎のこと)
牌前へ供之。
嘉永7年10月9日の太郎の命日の日記は。
今日琴靍祥月。きがら茶飯・一汁三菜、汁(納豆汁)、平(八つ頭・山東)、
皿(大こんおろし・麩・ぶどう)、猪口柚みそ製作致、牌前へ供し、伏見・大内へ贈之。
路の日記は、想像を絶する闘病生活だった太郎、目の前で苦しむ我が子を助けられない路の無念さに胸をしめつけられます。
もし、文字だけで読む人の心に何かを訴える。強い感情を湧き起こすものを「文学」と定義づけるなら、
路の日記はまさに文学。
もちろん、本人はそんなつもりはさらさらないわけですが。
稀代の作家、馬琴の日記以上に、当時の「人」の姿、「心」を描写している路の日記。
江戸時代に興味のある方はご一読を。
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