« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

2014年5月29日 (木)

天狗焼きに惹かれ高尾山に行ってきました

念願の高尾山に行ってきました。
昨年、山ガールの友達から高尾山で売っている天狗焼きの存在を教えてもらった時、
天狗のブサカワ具合に一目惚れ。食べたくてたまらなかったのです。

そして、昨日やっと行くことができました!
高尾山口駅で下車して高尾山の1号路を歩き始めたのは13時45分頃。
この時間ですとこれから登る人よりも降りてくる人の方が圧倒的に多いですね。
頂上でお昼を食べてちょうど帰る時間になるのでしょう。

高尾山に来るのは実はドキドキでした。
昔、高尾山に来た時、私には手に負えないと思ったからです。
その時、初心者コースだったはずなのに、柵のないへりの道(山肌に巻いた道)があるわ、
尾根歩きはあるわ、沢近くを歩くわで、私には十分「登山」となってしまったのです。

「へり歩き」は怖い。でも「天狗焼きは食べたい」。
天狗焼きへの思いが上回って今回、高尾山アゲインとなったのでした。

結論から言って、1号路はまったく怖い思いをすることはありませんでした。
ほとんど舗装の道。へりには必ず柵がありますし、道幅もたっぷりあります。
ほとんど土の道がないので、落ち葉の上を歩くとか、土を上を歩くとかの情緒は味わえませんが、
怖い思いをしないのはありがたいことです。
(へり苦手な私がかつて歩いたのは4号路や6号路だったことも今回わかりました)

ゆっくり歩いて、念願の天狗焼きショップについたのは14時20分頃。
20140528takao01のれんの天狗もかわいいです。







20140528takao04こちらが夢に見た天狗焼き。

あれ、顔が違う。天狗というより、宇宙人・・・烏帽子をかぶったタコ星人・・・

眼の下にはクマもあって、やつれてみえます。

と思ったら、逆さに置いていました。

逆さになっても「顔」に見えるってすごい・・・。

20140528takao03正しい向きと逆さ天狗を並べるとこんな感じです。






20140528takao05天狗ちゃん。
にらめっこで笑いそうになるのをこらえて、
むっとしたように見える顔がたまらなくかわいいです。











20140528takao06宇宙人のような「逆さ天狗」ちゃんもかざしてみました。

刑事役がぴったりの俳優、遠藤憲一にも少し似ているような。

早速いただくと・・・。













20140528takao08おいしいです~。
皮は。サクカリッ、もっちりの生地がおいしいです。
餡は。やられました~。つぶあんではなくて、黒豆餡なのです。

私は黒豆大好き。甘すぎない、粒感が残った(黒豆の甘納豆みたいな)黒豆餡とこの皮のクオリティ。
「天狗焼き」は大満足な味でした!
このビジュアルに惹かれて高尾まで来てよかった~~~~。

20140528takao07裏面には「天狗焼」の焼印が。







20140528takao09_2作っているところを撮らせてもらいました。
黒豆の餡がたっぷりと盛られています。

天狗焼き売り場の近くには明治のお菓子を売っている店があるのですが、
なんとピックアップのコンソメ味がありました!

ピックアップは私が子供のころから大好きなお菓子で、青い箱のチーズ味がとにかく好物。
去年ぐらいまで近所のスーパーでチーズ味が買えたのですが今は取扱いがなくなってしまいました。
まして、コンソメ味は私は大人になってから販売されているのをみたことがありません。
でもまだ、現役で販売されていたんですね!うれしいです。
(ここで販売されているなら下界でも買えるであろうと未購入)

のんびり天狗焼き休憩をして15時過ぎにまた歩き始めます。

20140528takao11都心は30度に届くかという暑い日でしたが、
高尾は若干温度が低いような。
何より嬉しいのは1号路。
ほとんど木陰の中を歩けること。
絶えず、木立に守られて、
緑陰に包まれるというのはうれしいです!!!
5月の風もさわやか。

薬王院のあたりは石段続き。
その後、木の階段もあり。

薬王院を越えてからは思ったより早くに頂上に着きました。
20140528takao12頂上についたのは16時頃でした。

20140528takao13_2お店は閉まっていました。
平日&夕方のため
あまり人もいません。

でも、この季節の
16時はまだまだ明るいです。





20140528takao17澄んでいれば富士山も見えるそうなのですが、もやっていて見えず。
幾重にも連なる稜線。手前は濃い青緑、奥に行くにつれ、だんだん色が薄くなっていきます。
その青のグラデーションが美しかったです。

20140528takao18吉祥寺のお店のおいしいガレットをいただきました。
クッキーより歯ごたえはあります。バターのコクが口の中いっぱいに広がります。
食感は違うのにフィナンシェを食べているかのようなリッチなバターの風味を楽しめました。

頂上で小一時間、のんびりして17時頃出発。

20140528takao21薬王院のところの急階段。


帰り道は夕方の鳥の鳴き声を楽しめました。ホーホケキョほか鳥のさえずりと傾きかけた西日の木漏れの木漏れ日の中を歩きます。

20140528takao23直径2メートルはあるだろうと思う杉の木の幹。
20140528takao26_2





20140528takao25しめ縄がつけられた杉の木は神聖さ、威厳を感じます。










20140528takao29_2もみじでしょうか、かえででしょうか。シルエットがかわいいです。

高尾山の入り口についたのは18時頃。

20140528takao31


ムササビのオブジェ→

写真を撮ったりゆっくりしながらも帰り(1号路)は1時間ぐらいで辿りつきました。

---------------

今の時期に高尾山に行くのはいいですね。
日が長いからこそですが、13時45分スタート18時終りでも十分楽しめました。
平日は休日に比べて混雑は少ないそうですし、17時以降はほとんど人とすれ違いませんでした。
(だから女性一人が遅い時間に登るとかはおすすめできませんが)

また、高尾山の整備は日々進化しているのを感じました。
昔行った時に足元が悪い思いをした方もまたチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
ケーブルカーやリフトを使えばさらに気軽ですし。

天狗焼き、本当においしかったです。

(2014.5.30追記。おかしのマチオカで明治ピックアップのチーズ味もコンソメ味も発見!
捕獲しました。久しぶりに食べるコンソメ味(少ししょっぱい味が高尾で歩く時にもぴったり)も鉄板のチーズ(鼻にふわんと抜けるチーズの風味)味もおいしいです)
→食べ物ブログの2014.7.9にアップしました

2014年5月21日 (水)

2014年5月21日大きな虹が出ました

私は虹が大好き。
今日の雨上がり、私は見逃してしまったのですが、大きな虹が見られたようですね。

姉が虹を撮ったのでアップします。

20140521rainbow1

見晴らしがいい場所からの撮影。左脚から右脚まで写っています。
正面に見えるのが東京工科大学(八王子)ですね。

虹をアップにすると

20140521rainbow2

アーチの下側紫色の外側にいくつか縞模様がみえますね。
これは過剰虹です。

虹のつけねには宝物が埋まっている、という言い伝えがありますよね。
私もふもとを目指して駆けていったことがあります。

虹は手の届かない別世界に掛かっているようにみえますが、
なんということでしょう!
住宅街の上から伸びています。

20140521rainbow

もう1枚。

20140521rainbow_4

ベランダのすぐ先に、虹のつけねがみえます。
手の届かないはずの非日常の虹がつかめそうなところにある、
その感覚にわくわくしたそうです。

自分の家の上から虹が伸びている、ってどんな気分でしょう。
この家の方々はきっと近すぎて、きづいていないのですよね。
教えてさしあげたいです。
(場所は八王子みなみ野駅の東側でしょうか)

さて、虹が虫偏なのはなぜでしょう。
中国では古代、虹はへびが横たわった姿だと考えられていたことによります。
詳しくはこちらに。

2014年5月 8日 (木)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その6)手を焼いた孫倉太郎と力次郎

曲亭馬琴(滝沢興邦)の日記も面白かったのですが、まさかそれ以上に路の日記にはまるとは思いませんでした。

滝沢路の日記シリーズ。その6は孫の倉太郎についてです。

今回、ものすごく長いです。疲れたら、遠慮なく読むのを挫折してくださいね~。

続きを読む "雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その6)手を焼いた孫倉太郎と力次郎" »

2014年5月 7日 (水)

2014年青葉農園に行ってきました

今年も青葉農園に行ってきました。

まず今回一番印象に残ったバラを。
20140507aobanoen_eventail_dor2「エバンタイユ・ドール」。
フランス語で「金の扇」。くすんだイエローがとてもシックなのです。
花の中心に向かってセピア色に近いグラデーションになっています。

「クラシック」というよりも「アンティーク」な雰囲気を感じさせます。
博物館に飾られている昔の貴婦人のドレスのよう。
少し色あせているけど豪奢なレースや刺繍がほどこされているような。

独特の雰囲気を放っていました。




20140507aobanoen_terracotta どこかひねった色合いのバラが好きな私は
「テラコッタ」も好き。

20140507aobanoen_terracotta2 煉瓦色です。そしてどことなくマットな印象があるところも
「テラコッタ」という名前にぴったり。
少し肉厚のぷっくりした花びら、フォルムがかわいいです。

素焼きのような明るいベージュ色
ターコイズブルーを差し色に効かせた壁や花壇に
テラコッタを植えたら…。
バラなのに「おフランス」ではなくて「サンタフェ」な感じがして
おしゃれだろうな、なんて思います。



紫色のバラも年々種類が増えているように感じます。

20140507aobanoen_bluemoon 「ブルームーン」。
青の静けさにほんの少しだけ赤の情熱を混ぜたような、静謐なたたずまい。






20140507aobanoen_blueperfum 「ブルーパフューム」。
紫だけど少し華やかさを増したバラ。







20140507aobanoen_newwave 「ニューウエイブ」。
その名の通り花びらの縁がひらひら波打っています。












20140507aobanoen_jeffhamilton2 いろんなイングリッシュローズにもうっとり。
こちらは「ジェフ・ハミルトン」。
なんという巻き巻き具合なのでしょうか!

名店のクロワッサンをカットすると
断面が見事に螺旋を描いていてうっとりしますよね。

あのうっとりに近いものを感じます。
職人が手で花びらを巻き重ねるわけではないのに、
バラが自分自身でこんな渦巻を創りだすことが不思議。

20140507aobanoen_ambridgerose2 「アンブリッジ・ローズ」。
外側の花びらが淡いピンク。
中心の花びらが濃いアプリコットピンク。
可憐な「ピエール・ド・ロンサール」に雰囲気が似ています。
香りもとてもよかったです。











青葉農園はもちろん、バラ以外もいろんな植物に出会えます。

20140507clover2 「クローバー・ティントネーロ」。
ネーロは黒という意味ですね。普通、葉は緑色ですが、まるで黒いペンで塗り消したように、縁だけ緑色を残して黒い葉がなんとも素敵。
クローバーのラブリーさに、強さを出していて、北欧のテキスタイルのような雰囲気。

20140507clover3 クローバーには花が赤紫がかっていて、葉もワイン色のものも。
こちらは「クローバー・ティントワイン」。













20140507cerinthemajor1 以前も青葉農園で、その深い色合いにぽおっheart04となった「セリンセ・マヨール」もいました。
ブルーベリーの色や、くわいのグレイッシュなブルーがお好きな方は絶対好きなはず!!






20140507odamaki2 オダマキにこんなかわいい花が。
名前は「ピンクペチコート」。
マリー・アントワネットの頃のふわっとしたドレスのよう。












花が白~少し黄緑色がかっている。葉はシルバーがかっている。
ほわっとした質感。の植物に無性に惹かれます。

フランネルフラワー、エーデルワイス、ラムズイヤー、ミヤマウスユキソウ(深山薄雪草)とか。
ですので青葉農園でも白い花やシルバーがかったリーフに眼を奪われました。

20140507buddleja 「ブッドレア」も大好き。







20140507omphalodes2 「オンファロデス」。

ごく小さな白い花が、かすみ草ほど密集していないのですが、ぽ、ぽ、ぽっと咲いている様子が可愛いです。白い花も良く見ると内側にほんの少し色濃く、浮彫りみたいに見えるところがあるのも小粋です。











20140507orlaya1 花が放射状に咲く、名づけるなら「線香花火系」の花、「オルラヤ・ホワイトレース」を買いました!!


20140507orlaya6 二つの楕円形の花びらが寄り添う様子がハートみたいなのも女子のツボを心得ていますよねえ。下の方に大きなハートが3つ。上の方は小さなハートが3つ。なぜアンバランスなのでしょう。




20140507orlaya5 中心の球状のものをアップするとこんな感じです。





20140507orlaya2 おしべでしょうか、めしべでしょうか。ぴよんぴよんと飛び出た様子をアップで。

この花はこぼれ種で翌年も咲くということなので、来年も楽しめたらいいな~と思います。

青葉農園シリーズINDEXはこちら

2014年5月 5日 (月)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その5)息子太郎の壮絶な闘病と死

滝沢興邦太郎は、曲亭馬琴(滝沢興邦)の孫。
文政11年(1828年)2月22日に生まれますが、嘉永2年(1849年)10月9日に22才の若さで亡くなります。

ただし書きは滝沢路の日記(その2)を。

続きを読む "雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その5)息子太郎の壮絶な闘病と死" »

2014年5月 4日 (日)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その4)嘉永3年~安政5年の江戸の町の雪の記録

江戸時代、特に文政以降の雪の日を調べています。というのは古河藩主の土井利位、家老の鷹見泉石がどんな雪の日に結晶観察をしたのか探るためです。

続きを読む "雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その4)嘉永3年~安政5年の江戸の町の雪の記録" »

2014年5月 3日 (土)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その3)安政の大地震ほか嘉永~安政の地震の記録

近年江戸の町を襲った大地震といえば安政2年10月2日の「安政の大地震」。
滝沢路(たきざわみち)はこの大地震も経験し、克明な記録を残しています。

もともと滝沢馬琴が日記に必ず、その日の天候や地震の有無を記載していたため、路もそれに倣って、地震の有無を記しているのでしょう。

滝沢路の日記から地震の記述をピックアップしてご紹介します。

嘉永2年6月~嘉永5年は特に目立った記述を、
嘉永6年~安政5年は頻度も参考になればと小地震を含めすべて書き起こしてみました。
(私の気づき洩れがあれば、後で加筆します) 

路の地震記録のポイントは以下の4点。

(1)嘉永6年2月2日の小田原地震は江戸の街でも大きく揺れたことがわかります。
(2)嘉永7年6月13日の伊賀上野地震は、江戸は揺れなかったものの情報を記しています。(青文字)
(3)嘉永7年11月4日の安政東海地震は江戸も大きく揺れたことがわかります。 (緑文字)
(4)安政2年10月2日の安政の大地震は路は自宅(四谷信濃坂千日谷上/現在のJR信濃町駅南側、新宿区霞ケ丘町14-1あたり)で体験。地震の大きさがよくわかります。(当日だけを赤字にしました)

※記載にあたってのただし書きは滝沢路の日記(その2)をご覧ください。
※具体的な震度はわからないわけですが、大きいと思われる地震は太字にしてみました。
※両度というの「二度」のことですね。
--------------------------------
【嘉永3年/1850年】
10月29日 九時頃地震。余ほど震ふ

【嘉永4年/1851年】
2月21日  未ノ刻地震、余程震ふ

【嘉永6年/1853年】
2月2日 四時頃地震余ほど振ふ 夜に少々
2月4日 両度地震
12月18日 今晩七時頃地震両度

【嘉永7年(安政元年)/1854年】 
2月22日 今日八時頃地震
3月17日 八時過地震
5月11日 申の刻過地震
5月20日 昼九時頃地震

伊賀上野地震(震源は伊賀市付近)についての記載↓

6月24日 
勢州・江州過大地震致候由。さげととなへ候者売に来る。
7月2日  去る十四日勢州辺之地震、田丸加藤氏より文通被越申候地震之光景読為聞、暫して被帰去。

8月29日 四時頃地震
8月30日 夕七時頃地震
9月19日 夕七時過小地震
10月5日 辰の刻頃小地震

安政東海地震(震源は駿河湾)についての記載↓

11月4日 
四時前地震 よほど震ふ
      今朝四時前地震、よほど震ふ。庭の石どうろふ頭落、其外戸障子上より落、
      自・おさち欠出し、巴旦杏にすがり、暫くの間しづまらず。近来珍しき地震。
      青山辺はよほどつよく、土蔵類所々痛候由也。
      其後終日十一両度ほど、夜に入折々地震。夜中起出候所も有之由なり。

      
      私がざっくり訳しますと      
       (今朝四時前に地震。大きく揺れる。庭の石灯籠の頭が落ちる。
       そのほか戸・障子が上から落ちる。私とおさちは家から抜け出し、
       巴旦杏の木にすがりついた。しばらくの間地震はおさまらなかった。
       近来珍しい大きな地震である。
       青山あたりも大変揺れて、土蔵類がところどころ被害を受けた。
       その後終日11~12回ぐらい地震があった。夜入っても何度か地震があった。
       夜中に起き出した人もいたとのことだ)

11月6日 今日も四、五度地震。
11月8日 去四日地震、下田・三島辺大地震にて、江戸より在番の人多く死去致候由。恐るべき事也。
11月10日 地震両度。

【安政2年/1855年】 
1月13日 四時過地震
2月12日 九時半頃地震
2月17日 暁六時頃地震
7月3日  夕七半時過地震 よほど震ふ
9月28日 暮六時頃地震

安政の大地震の記載についての記載↓(下巻p461~)

10月2日 私メモ/欄外に「
亥の刻大地震」と記載あり。
      
四時頃大地震。戸障子外れ、自倉太郎をいだき、おさち・榎本氏御母儀外へ出んとするに
      こしたたず、このまま死すると各覚悟致、金ぴら様一心にねんじ候内、少ししづまり候所、
      床の間かべを落し、土蔵鳥居味甚にこはし、庭なる石灯籠を仆(たお)し、手水鉢を落し、
      其騒(さわぎ)大かたならず。
      夫より病人おさち母子を裏へ出、吉之助家内の始末火元こころつけ、皆物置へ居。
      折々地震いたし、明方迄十五度振ふ。内四度はよほど大きく振ふ。
      恐るべし、かなしむべし。さめはし・伝馬町・麹町大家仆れ、怪家人多く候由也。
      無なく右見舞として定吉・清助倅長吉来る。甲賀組はよほどあて、皆何れの土蔵振候由。
      其後追々見舞の人来る。是は数多に付、姓名は贈答暦にしるす。
       暁七時頃より一同玄関におゐて夜を明し候也。
      しかる所、西の丸下・小川丁・下町・新よし原・芝居町、一同地震火初り、
      十六口にもえ出、此辺も白昼の如く赤く相成、凄まじきありさまいふべからず。
      
 (中略)
      私がざっくり訳しますと
      (四時頃大地震。戸障子がはずれる。私が倉太郎(私メモ/路の孫)を抱き、娘のさちと、
      榎本氏御母(さちの姑)と外へ出ようとするが、腰が立たない。
      このまま死んでしまうと各自覚悟をし、金毘羅様に一心に念じていたところ、
      少し地震がおさまった。床の間の壁は落ち、土蔵と鳥居は大きく破壊され、
      庭の石灯篭は倒れ、手水鉢は落ちている。その被害は甚大である。
      病人さち母子(私メモ/さちは妊婦)を裏に出し、さちの夫の吉之助は家の中の火元を
      始末し、みんなで物置に避難した。
      その後も何度も地震があり、明け方まで15回地震があった。
      そのうち4回は大きく揺れた。恐ろしい。かなしむべし。
      鮫橋、伝馬町、麹町の屋敷は倒壊し、けが人が多く出ているとのことである。
      ほどなく地震見舞いとして定吉、清助のせがれ長吉が来る。
      甲賀組(以下少し意味わからず)。
      その後、次々見舞いにきてくださる方がいた。数が多いので姓名は贈答暦に記す。
      暁七時頃より家族一同玄関で夜を明かした。
      西の丸下、小川町、下町、新吉原、芝居町一帯から地震による火災が起こり、
      十六口に燃え広がり、このあたりも白昼の如く赤くなり、凄まじいありさまは言いようもない)

10月3日 吉之助早朝榎本氏より坂本氏へ見舞いに行、無程帰たく。(略)
      万平殿住居の長屋皆潰れ、命からがら親子三人被出候、既に迯(にげ)おくれ、
      三人とも上より潰され候へども、幸ひたんす櫃にさへぎられ、少しゆうよあるにより、
      われをたすけよと声かるるまでさけび候内、外人被参、三人とも引ずり出され、
      やうやう命につつがなきよし。弁当は外より貰、うゑをしのぎ被居候由、早々帰宅して告之。(略)
      今晩も一同不寝也。世間一同野宿也。今晩四つ時・九つ時又地震余ほどいたし候由風聞す。
      此ゆへに我家に居候者なく、或は庭内、或は竹園・菜園抔(など)へ戸板を布、夜を明し、
      終日終夜右之如く也。深川・本所・丸の内・よし原、下町何れも怪家人多く候由、人々申之。(略)
      今日も昼夜七、八度震ふ。
10月4日 自今晩悪寒致候に付、早く枕に就き候所、四時頃大内夫婦口論被致候に付、
      伏見岩五郎殿中に入、隣之助をなだめ候へども益怒り、岩五郎殿と喧嘩、互に大声に成候ゆへ、
      吉之助走り出、両人をなだめ候(以下略)。今日も昼夜に地震七、八度也。
10月5日 今日も地震昼夜六度也。此故に家内一同玄関或は四畳に伏し、卒と申さば迯出さん用意致、
      打臥候也。
10月7日 暮六時過地震 よほど震ふ 両度也。皆々外へ出る。
10月8日 今日も両三度地震也。
10月11日 今日も昼夜三度地震也。
10月12日 (出かけた吉之助が)帰路入湯致候半は存候所、折から地震余ほど震ひ候に付、其儘帰宅。
10月13日 今日も両度地震。
10月14日 四時壱度、其後一度余ほど震ひ、明方壱度少々。
10月15日 地震、夕七時過一度、夜に入三度也。内一度明方のは長し。
10月17日 八時過地震 其後夜に入両度。
       田辺礒右衛門殿来る。右は、此度大地震にて住居損じ候所有之候はば書出し、
       明日迄にぜひ出候。又格別の損じもなく願はしき無之候はば沙汰に不及と被申、帰去。
10月19日 昨今地震なし。
10月20日 九時過地震。
10月21日 朝五時頃両度地震
10月22日 今日も朝地震
10月23日 今日地震不致。倉太郎今日も同様、兎角やかましく、人手かかり大困り也。
10月24日 少しずつ両三度地震
11月1日  昼時地震 夜に入二度
11月3日  九時地震に付、一同起出候也。
11月10日 四時過小地震 夜四時過地震
11月12日 五時頃地震両度也
11月18日 今暁六時過地震 長し
11月19日 明六時過地震
11月24日 丑の刻・卯の刻後両度地震
11月25日 未の刻前地震
11月29日 鮫橋一行院にて明暮両度六時鐘、地震以来休、廿六より又始む。
12月2日  さち 次男出産。
        (地震とは関係ないのですが、大地震を経験した2カ月後に娘のさちが無事出産しています)

【安政3年/1856年】
1月4日 夕七時頃地しん
1月7日 亥時地震
1月9日 昼九時地震、夜五時過又地震
1月13日 両度地震
3月25日 八時頃地震
3月26日 五時頃地震
3月29日 戌刻前地震
4月6日  四時頃地震
4月26日 七時頃地震
7月28日 今晩六時地震 玄関迄一同出る
10月1日 今朝五半時頃地震
10月7日 五時過地震 余ほど震ふ 

---安政4年は日記の現物が残っておらず---

【安政5年/1858年】
1月13日 朝五時頃地震
2月26日 八半時頃地震
5月4日  夕七時過地震
6月8日  四時過地震


eye路の日記を読むと、安政2年10月2日の安政の大地震がいかに大きいものだったかわかります。
また、互いに見舞いをしあったり、被害の状況報告を地区ごとにまとめるシステムがあったことがわかります。
またこの地震のあとの余震が多かったこともわかります。

Ansei_great_earthquake◇安政の大地震に関しては記録集『安政見聞誌』(仮名垣魯文編一勇斎国芳ほか画)が安政3年3月に、
『安政見聞録』(晁譱著 服保徳編)が安政3年6月に出版されています。

                       パブリックドメインより

ネットで閲覧/
どちらも早稲田大学古典籍データベースで閲覧可能。
「安政見聞誌」は
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03754/index.html
「安政見聞録」は
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03755/index.html

国立公文書館の今月のアーカイブ『安政見聞誌』『安政見聞録』ttp://www.archives.go.jp/owning/monthly/1006/archives_index.html
では本の概要をハイライト的な絵とともに紹介していてわかりやすいです。


滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら
雪の結晶INDEX(全般)はこちら

2014年5月 2日 (金)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その2)                    文筆に導かれた人生&ただし書き&ただし書き

滝沢馬琴の長男宗伯と結婚して一男二女をもうけた土岐村路(ときむらみち) 。
江戸時代に精通しているわけではない私が言うのもなんですが、路は江戸時代の特筆すべき女性の一人と思っています。

路の年表を簡単にまとめてみましょう。
(参考資料『曲亭馬琴日記別巻』 柴田光彦編/中央公論新社 2010)

文化3年(1806年)  6月6日誕生。名前は鉄。
文政10年(1827年) 22才。馬琴の長男宗伯と結婚。鉄から路に改名。
文政11年(1828年) 23才。長男太郎を出産。
天保元年(1830年) 25才。長女つぎを出産。
天保4年(1833年)  28才。次女さちを出産。つぎはさき(馬琴の長女。つぎの伯母)の養女となる。
天保6年(1835年)  夫宗伯が39才で亡くなり、路は30歳で未亡人となる。
天保9年(1838年)  馬琴の妻の百(路の姑)が路との同居を嫌がる。
天保12年(1841年) 36才。視力が衰えた馬琴に替り『八犬伝』の代筆をする。
             以降、路は馬琴の口述筆記をおこなうようになる。            
             姑の百が78才で亡くなる。
嘉永元年(1848年) 43才。馬琴が82才で亡くなる。(晩年の馬琴の日記は路、太郎が代筆)
嘉永2年(1849年)  44才。「路女日記」として、日記をはじめる。               
             息子太郎が22才で亡くなる。
嘉永4年(1851年)  46才。次女さちが19歳で吉之助と結婚。
嘉永6年(1853年)  48才。次女さちが長男倉太郎を出産。路の初孫。
安政2年(1855年)  50才。安政の大地震を経験。次女さちが次男力次郎を出産。
安政5年(1858年)  53才。8月17日に路亡くなる。4日前まで日記を書き続ける。

その人生、何が他の女性と違うかというと、
(1)嫁いだ先が馬琴の家だった。売れっこ作家であり、日本で文筆業だけで生計を立てた最初の人物ともいわれる家に嫁いだのは特異といえるでしょう。
(2)馬琴の代筆という必要性があったため、文筆をおこなった。

(2)に関して。
目が不自由になった馬琴に替り、口述筆記をはじめた路。最初は不慣れなためか誤字があちこちに。
ですが次第に誤字も減り、文章も上達していくのがわかります。

『路女日記(みちじょにっき)』木村三四吾(みよご)編校(八木書店 1994)のまえがきは路の生き方がよくわかる内容ですが、路が馬琴の執筆を助ける様子を木村氏はこんな風に記しています。
(以下、この本からの引用部分は青文字。路の文章はすみれ色文字)。

馬琴、ほぼ天保10年前後より衰眼の兆あり、十一・十二年と視力とみに減じ、遂に盲に至る。
以降、その作品・書翰・日記等凡そ筆録の一切、多くは路女への口述筆記になり、時には路女、琴童の名を持って父翁の作に擬することさえあった。
(p2)

ところで、馬琴にとって日記は個人のものではなく「滝沢家」の記録として重要だったようです。
木村氏はこう続けています。 
馬琴にとって、日記とは、単にわが一個の私記たるにとどまらず、そのまま滝沢の家の歴史につながる、家記としてのいわば公的な性格をも持ち、家長たるものの最も厳粛大切の義務、との自覚があった。 (p3)

馬琴は、家族が今日下痢を何回したかということまで詳細に記しています。
きわめつけは長男宗伯(路の夫)が亡くなった時のこと。
悲痛な思いの中で、馬琴はことこまかに愛息の臨終の描写をしています。

晩年、路に口述筆記、代筆をさせながらも日記を続けた馬琴。
そのおかげで、路の筆力が向上する様子を木村氏はこう述べています。

この年(私メモ/嘉永元年)十一月六日に馬琴は逝くのであるが、記文(私メモ/馬琴日記のこと)の体、終没のやや前あたりからさすがに病舅父の見とり記風な、お路自身の筆運びとなっており、馬琴遠行の当日さえなおかつ筆録を廃してはいない。その日以後も従前に何の変ることなく、彼女は日記を書きつづけた。勿論、自分自身のものとしてである。(p3)

馬琴没後も「馬琴日記」として書き続けた路ですが、嘉永2年5月30日に
是より六月、新日記へ移る
と記し、嘉永6年6月からは新たな冊に日記を書きはじめます。
馬琴からの独立宣言、滝沢家の家長のような覚悟を感じ取れます。
(この嘉永6年6月以降、亡くなる安政5年までに書きあげた日記は10冊。
これが後に路の日記として刊行されるのです)

彼女の「日記」に対する責任感の強さは、息子太郎の死の場面でも感じられます。
馬琴が亡くなった翌年嘉永2年、太郎は22才の若さでこの世を去ります。
その壮絶な闘病生活を路は克明に記しているのです。
<馬琴が我が子宗伯の闘病を記したように、我が子太郎の闘病を記す路。
馬琴とは血がつながっていない路ですが、まるでDNAを受け継いだかのような筆の運びを感じます。

そんな路も、太郎が亡くなった時はさすがに筆を止めてしまいます。
最愛の我が子に先立たれることの辛さが察せられます。
再び日記を再開するのは太郎の死から二週間後。その時、自戒の念を述べているのです。

九日(私メモ/嘉永二年十月九日。太郎が亡くなった日)以後、愁傷腸を断心地して、筆とることもいとはしく、後の為にと日記しるさんと筆とり候えば、胸のみふたがり、一字もかくことかなはず。(私による中略)蓑笠様(私メモ/馬琴のこと)是迄被遊候御心中に背候も不本意に存候に付、思かへして、 又廿二日より涙ながらに記すもの、左之如し

私が現代語訳するほどではないですが、ざっくりと。
太郎が亡くなった9日以降、はらわたがちぎれるほど悲しく、筆をとることも厭わしく、後のために日記に記そうと筆をとっても、胸がいっぱいで一文字も書くことができなかった。
(略)けれども、家のために日記を書き続けてこられた蓑笠様(馬琴)の信念に背いていることも不本意なので、再び22日から涙ながらに記しました。それが左のものです。


つまり日記を一日であっても休むのは馬琴の教え、滝沢家を守る者としての役割に背いていると感じているのですね。まえがき(p4)ではこのように記されています。

日記に対する気構えのきびしさ、洵に目をみはるものがある。(私による略)
一日も日記は中断すべきでないというのを亡父蓑笠様馬琴の遺図遺訓と受けとめ、一家に長たるものの、己が家憲として些かも違うまいとする、これこそが路女の日記意識というものであった。(私による略)
長年にわたる馬琴日記代筆の間、彼女自身が自ら体得し、やがて習・性となったものである。(私による略)
愛児を失い、その悲しみにうちひしがれての旬余にわたる空白に対し、日記はむしろそうした非常をこそ書きとめておくべきだった、との血の出るような反省自責の文章である。

その筆致に関して木村氏は
書法既に往年の稚拙さはなく、殊に晩年に及んではむしろ巧緻老熟とも称し得ようか。(中略)
時には馬琴常套の口跡をさえも散見する。むしろ女の文章ではなく男のそれをさえ感じせしむ。(p5~6)
と述べています。

路の夫が普通に生きていたら、また、夫を早く亡くしても息子が生きていたら、路が日記を書く必要もなく、後世に名が残ることもなかったかもしれません。

けれども、夫も長男にも先立たれたため、また、路が滝沢家や馬琴への忠義を持っていたため、路は女性なのに日記をひたすら続けることになったのです。

ただ、路は日記を書き続けていたのは責任感だけではなく、文章を書く喜びを感じてしまったんだろうなと私は感じます。
たとえば。飼っている猫の仁助の具合が悪くなった時、その様子をこまかに描写しているのです。
さすがに猫は、滝沢家の記録に必要があって書いたとは思えません。
太郎の病状を記す中で身に着けた観察眼で、綴ってみたいという欲求が生まれたのかなと思います。

路は自分が書いた日記を子供や孫が目を通すことは十分意識していました。
孫の倉太郎が大人になった時に、どんなに親が愛情を持ってあなたを育てたかを知るためにこの日記を読み返してほしいというようなことを書いています。
でも、まさか、後世、自分の日記が出版され、家族でもない人たちに詠まれることになるとは想像していなかったでしょう。

さて、路は安政5年8月17日、53才で亡くなりますが、日記は亡くなる4日前の8月13日まで続けられていました。

たまたま馬琴の家に嫁いだこと。夫、息子を亡くし、自分が家を守らなければという辛い境遇が彼女を「執筆」に出会わせ、文筆という才能を開花させてしまったのです。
路は歴史に大きくかかわる人物ではないけれど、他の一般的な江戸時代の女性と比べたら、劇的な一生だったなと思います。 
(もちろん、現代より病気ひとつが命取りになる時代。すべての女性の人生が波乱万丈で、誰一人、平凡な人生ではなかったと思いますが)。


2014052takizawake_kakeizu 私自身が路家族を把握するために家系図を作ってみました。
必要なところだけをピックアップしています。
水色は男性。ピンクは女性。赤の四角は馬琴の血を受け継いでいる子孫です。
クリックすると拡大します。
(あくまでも参考資料にと作成したものですので無断転載ご遠慮ください)。
橘の前に死産の子供がいるようなので、正確には橘は長女ではないかもしれません。

---------------------------
◆◆ただし書き◆◆


滝沢路の日記シリーズ(その3)以降は日記から要所をピックアップしてご紹介します。
そのただし書き。

●滝沢馬琴は曲亭馬琴もしくは滝沢興邦という言い方が正式と思われますが、「滝沢馬琴」がポピュラーであるのでこのブログでも使用しています。

●嘉永2年~5年は
『路女日記(みちじょにっき)』木村三四吾(みよご)編校(八木書店 1994)の引用です。
嘉永6年~安政5年は
『瀧澤路女日記 下巻』柴田光彦編(中央公論新社 2013)からの引用です。

●表記は私がアレンジしています。正月六日を1月6日にしたり、旧漢字を新漢字にしたり、明らかな誤字は直したり、カタカナで書かれた助詞をひらがなに直すなどをおこなっています。

●日記からの引用の際、私が写し間違えた誤字脱字などがあるかもしれません。
今後加筆修正もありえますので、無断転載はご遠慮ください。

滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら
雪の結晶INDEX(全般)はこちら

2014年5月 1日 (木)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その1)はじめに

江戸時代のある女性の日記を読みおえました。
昔の人の日記を見るとしみじみした気分になります。

1)顔すらわからない縁もゆかりもない人物と接することができるという不思議。

人間が「文字」を発明したからこそ、「言葉」を介して、異なる時代に生きた人の日常生活がわかり、その心情に共感できたりする。時空を超えて交流できることが不思議です。

2)日記を通じて、「あの時代にこういう人が生きていたんだ」と新たな出会いに感慨を感じますが、同時に「でも亡くなってこの世にはもういないんだ」とさみしくなります。

今回、読んだ日記には孫のことが日々克明に記されていました。ほぼ毎日、うんちが何回出た。下痢はどうの。風邪をひいてどんな対処をしたか。よちよち歩きができるようになって、乳歯が抜けて・・・どんないたづらをして怪我をして、誰がどんなおもちゃをくれたかなど。でも、時は江戸時代。あたりまえですが、この小さな子ですら、もうこの世にはいないのです。無常観を感じます

3)いつの時代にも変わらない「心」を感じます。

誕生をよろこび、季節の行事を愉しみ、死を悲しむ。日々の生活を懸命に生きる姿に普遍的な「人の心」を感じます。
----------
さて、今回読んだ日記というのは滝沢路(たきざわみち)という女性の日記です。
滝沢路と聞いて、ピン!と来る方がいらしたら相当の江戸時代通。

ヒントは苗字。

答え。滝沢路は『南総里見八犬伝』の著作で有名な滝沢馬琴(曲亭馬琴)の長男宗伯の妻です。

私が路を知った発端は土井利位(どいとしつら)の雪の結晶です。

江戸時代の古河藩主、土井利位侯がどんな雪の日に結晶の観察したのか知りたいと思いました。
そこで
→同時代に同じ江戸の町で暮らした曲亭馬琴の日記を調べる
→雪の日の詳細がわかるとともに馬琴が土井利位の雪華図説を写し取っていたことを知る
→晩年、目が不自由な馬琴に替って路が著作や日記の口述筆記をおこない、馬琴没後も日記を書き続けたことを知る
→路の日記を読む
に至ったわけです。

成果
◎路も日記に天気を記していたので、嘉永~安政の雪の日を知るいい資料になりました。
☓馬琴と宗伯(路の夫)が模写した土井利位の雪華図について言及してくれていたらと思ったのですが、それに関する記述はみつけられませんでした。

というように、雪に関する収穫は多くはありませんが、江戸時代(嘉永~安政)のことがわかって大変興味深かったです。
当時の食生活、江戸の町の火事の記録、正月、盆、月見などの行事の祝い方、毎日の気象、当時の病気や薬、治し方などを知りたい方におすすめします!!

とりわけ、安政の大地震の描写は克明なので、資料として価値があると思います。

そこで、雪の結晶シリーズのスピンオフとしてこの路の日記を
1)はじめに
2)文筆に導かれた人生&ただし書き&家系図
3)路も体験した安政の大地震他嘉永~安政の地震の記録
4)嘉永3年~安政5年の江戸の町の雪の記録
5)息子太郎の壮絶な闘病と死
6)手を焼いた孫倉太郎と力次郎
7)飼い猫の仁助について
8)食べ物、黒船などの時事ほか
9)路の最期
10)路の家族のその後
11)路を題材にした作品
12)「ひ」が「し」になる江戸っ子の証が
13)お墓を訪ねてみました

の13回にわたってご紹介します。

路女日記

瀧澤路女日記 上

瀧澤路女日記 下巻

雪の結晶INDEX(全般)はこちら

« 2014年4月 | トップページ | 2014年6月 »

emi (秋田恵美)

  • プラネタリウムでのヒーリング番組制作に携わった後、現在は 土井利位侯の「雪華図説」をライフワークとして調べ中の図書館LOVER。              興味対象:江戸時代の雪月花、ガガーリン他。最近は、鳥にも興味を持ち始め、「花鳥風月」もテリトリーとなっています。
    コンタクト: メールアドレスはhoshibiyorihappy*yahoo.co.jp このyahooの前の*を@に変えてご連絡下さいませ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想

googleでサイト内検索↓

  • グーグルの検索窓に ■■ site:http://hoshi-biyori.cocolog-nifty.com/star/ をコピペして、■■部分を任意のものに変えていただくとサイト内の検索ができます。 ■■の後ろは半角空きです。
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

今日も星日和の衛星

  • ガガーリン地球は青かった 原文探し旅
    今日も星日和の第一衛星。  カテゴリー「ガガーリン」の  一覧と更新情報の アップブログ。ガガーリン中心にご覧になりたい方はぜひこちらをブックマークください
  • おいしくってしあわせ
    今日も星日和の第二衛星。 おいしーいものを少しずつ  紹介していきます

music

お散歩に行くブログ

  • 笑店 - 楽天ブログ(Blog)
    おんぽたんぽさんの心の琴線に触れたものが紹介されています。キラキラと大切なものが光ってる宝箱のようなブログ。
  • さる子の「こんな毎日」
    暮らしを豊かにする様々な美が満載のブログ。さる子さんは新ブログに移行され、こちらは基本停止中のようですがご紹介させていただきます
  • always in heaven
    「笑店」のおんぽたんぽさんの新ブログ。森羅万象のネットの中で素敵なもの、こと、ひとをみつけだされていて、訪ねるたびに素敵なエネルギーをいただきます。