雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その3)安政の大地震ほか嘉永~安政の地震の記録
近年江戸の町を襲った大地震といえば安政2年10月2日の「安政の大地震」。
滝沢路(たきざわみち)はこの大地震も経験し、克明な記録を残しています。
もともと滝沢馬琴が日記に必ず、その日の天候や地震の有無を記載していたため、
路もそれに倣って、地震の有無を記しているのでしょう。
滝沢路の日記から地震の記述をピックアップしてご紹介します。
嘉永2年6月~嘉永5年は特に目立った記述を、
嘉永6年~安政5年は頻度も参考になればと小地震を含めすべて書き起こしてみました。
(私の気づき洩れがあれば、後で加筆します)
路の地震記録のポイントは以下の4点。
(1)嘉永6年2月2日の小田原地震は江戸の街でも大きく揺れたことがわかります。
(2)嘉永7年6月13日の伊賀上野地震は、江戸は揺れなかったものの情報を記しています。(青文字)
(3)嘉永7年11月4日の安政東海地震は江戸も大きく揺れたことがわかります。 (緑文字)
(4)安政2年10月2日の安政の大地震は路は自宅
(四谷信濃坂千日谷上/現在のJR信濃町駅南側、新宿区霞ケ丘町14-1あたり)で体験。
地震の大きさがよくわかります。(当日だけを赤字にしました)
※記載にあたってのただし書きは滝沢路の日記(その2)をご覧ください。
※具体的な震度はわからないわけですが、大きいと思われる地震は太字にしてみました。
※両度というの「二度」のことですね。
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【嘉永3年/1850年】
10月29日 九時頃地震。余ほど震ふ
【嘉永4年/1851年】
2月21日 未ノ刻地震、余程震ふ
【嘉永6年/1853年】
2月2日 四時頃地震余ほど振ふ 夜に少々
2月4日 両度地震
12月18日 今晩七時頃地震両度
【嘉永7年(安政元年)/1854年】
2月22日 今日八時頃地震
3月17日 八時過地震
5月11日 申の刻過地震
5月20日 昼九時頃地震
伊賀上野地震(震源は伊賀市付近)についての記載↓ 6月24日 勢州・江州過大地震致候由。さげととなへ候者売に来る。 7月2日 去る十四日勢州辺之地震、田丸加藤氏より文通被越申候地震之光景読為聞、 暫して被帰去。 |
8月29日 四時頃地震
8月30日 夕七時頃地震
9月19日 夕七時過小地震
10月5日 辰の刻頃小地震
安政東海地震(震源は駿河湾)についての記載↓ 11月4日 四時前地震 よほど震ふ 今朝四時前地震、よほど震ふ。庭の石どうろふ頭落、其外戸障子上より落、 自・おさち欠出し、巴旦杏にすがり、暫くの間しづまらず。近来珍しき地震。 青山辺はよほどつよく、土蔵類所々痛候由也。 其後終日十一両度ほど、夜に入折々地震。夜中起出候所も有之由なり。 私がざっくり訳しますと 今朝四時前に地震。大きく揺れる。庭の石灯籠の頭が落ちる。 そのほか戸・障子が上から落ちる。私とおさちは家から抜け出し、 巴旦杏の木にすがりついた。しばらくの間地震はおさまらなかった。 近来珍しい大きな地震である。 青山あたりも大変揺れて、土蔵類がところどころ被害を受けた。 その後終日11~12回ぐらい地震があった。夜入っても何度か地震があった。 夜中に起き出した人もいたとのことだ |
11月6日 今日も四、五度地震。
11月8日 去四日地震、下田・三島辺大地震にて、江戸より在番の人多く死去致候由。
恐るべき事也。
11月10日 地震両度。
【安政2年/1855年】
1月13日 四時過地震
2月12日 九時半頃地震
2月17日 暁六時頃地震
7月3日 夕七半時過地震 よほど震ふ
9月28日 暮六時頃地震
安政の大地震の記載についての記載↓(下巻p461~) 10月2日 私メモ/欄外に「亥の刻大地震」と記載あり。 四時頃大地震。戸障子外れ、自倉太郎をいだき、おさち・榎本氏御母儀外へ出んとするに こしたたず、このまま死すると各覚悟致、金ぴら様一心にねんじ候内、少ししづまり候所、 床の間かべを落し、土蔵鳥居味甚にこはし、庭なる石灯籠を仆(たお)し、手水鉢を落し、 其騒(さわぎ)大かたならず。 夫より病人おさち母子を裏へ出、吉之助家内の始末火元こころつけ、皆物置へ居。 折々地震いたし、明方迄十五度振ふ。内四度はよほど大きく振ふ。 恐るべし、かなしむべし。さめはし・伝馬町・麹町大家仆れ、怪家人多く候由也。 無なく右見舞として定吉・清助倅長吉来る。甲賀組はよほどあて、皆何れの土蔵振候由。 其後追々見舞の人来る。是は数多に付、姓名は贈答暦にしるす。 暁七時頃より一同玄関におゐて夜を明し候也。 しかる所、西の丸下・小川丁・下町・新よし原・芝居町、一同地震火初り、 十六口にもえ出、此辺も白昼の如く赤く相成、凄まじきありさまいふべからず。 (中略) 私がざっくり訳しますと 四時頃大地震。戸障子がはずれる。私が倉太郎(私メモ/路の孫)を抱き、娘のさちと、 榎本氏御母(さちの姑)と外へ出ようとするが、腰が立たない。 このまま死んでしまうと各自覚悟をし、金毘羅様に一心に念じていたところ、 少し地震がおさまった。床の間の壁は落ち、土蔵と鳥居は大きく破壊され、 庭の石灯篭は倒れ、手水鉢は落ちている。その被害は甚大である。 病人さち母子(私メモ/さちは妊婦)を裏に出し、 さちの夫の吉之助は家の中の火元を始末し、みんなで物置に避難した。 その後も何度も地震があり、明け方まで15回地震があった。 そのうち4回は大きく揺れた。恐ろしい。かなしむべし。 鮫橋、伝馬町、麹町の屋敷は倒壊し、けが人が多く出ているとのことである。 ほどなく地震見舞いとして定吉、清助のせがれ長吉が来る。 甲賀組(以下少し意味わからず)。 その後、次々見舞いにきてくださる方がいた。数が多いので姓名は贈答暦に記す。 暁七時頃より家族一同玄関で夜を明かした。 西の丸下、小川町、下町、新吉原、芝居町一帯から地震による火災が起こり、 十六口に燃え広がり、このあたりも白昼の如く赤くなり、 凄まじいありさまは言いようもない |
10月3日
吉之助早朝榎本氏より坂本氏へ見舞いに行、無程帰たく。(略)
万平殿住居の長屋皆潰れ、命からがら親子三人被出候、既に迯(にげ)おくれ、
三人とも上より潰され候へども、幸ひたんす櫃にさへぎられ、少しゆうよあるにより、
われをたすけよと声かるるまでさけび候内、外人被参、三人とも引ずり出され、
やうやう命につつがなきよし。
弁当は外より貰、うゑをしのぎ被居候由、早々帰宅して告之。(略)
今晩も一同不寝也。世間一同野宿也。今晩四つ時・九つ時又地震余ほどいたし候由風聞す。
此ゆへに我家に居候者なく、或は庭内、或は竹園・菜園抔(など)へ戸板を布、夜を明し、
終日終夜右之如く也。深川・本所・丸の内・よし原、下町何れも怪家人多く候由、人々申之。(略)
今日も昼夜七、八度震ふ。
10月4日
自今晩悪寒致候に付、早く枕に就き候所、四時頃大内夫婦口論被致候に付、
伏見岩五郎殿中に入、隣之助をなだめ候へども益怒り、岩五郎殿と喧嘩、互に大声に成候ゆへ、
吉之助走り出、両人をなだめ候(以下略)。今日も昼夜に地震七、八度也。
10月5日
今日も地震昼夜六度也。此故に家内一同玄関或は四畳に伏し、
卒と申さば迯出さん用意致、打臥候也。
10月7日 暮六時過地震 よほど震ふ 両度也。皆々外へ出る。
10月8日 今日も両三度地震也。
10月11日 今日も昼夜三度地震也。
10月12日 (出かけた吉之助が)帰路入湯致候半は存候所、
折から地震余ほど震ひ候に付、其儘帰宅。
10月13日 今日も両度地震。
10月14日 四時壱度、其後一度余ほど震ひ、明方壱度少々。
10月15日 地震、夕七時過一度、夜に入三度也。内一度明方のは長し。
10月17日 八時過地震 其後夜に入両度。
田辺礒右衛門殿来る。
右は、此度大地震にて住居損じ候所有之候はば書出し、
明日迄にぜひ出候。
又格別の損じもなく願はしき無之候はば沙汰に不及と被申、帰去。
10月19日 昨今地震なし。
10月20日 九時過地震。
10月21日 朝五時頃両度地震
10月22日 今日も朝地震
10月23日 今日地震不致。倉太郎今日も同様、兎角やかましく、人手かかり大困り也。
10月24日 少しずつ両三度地震
11月1日 昼時地震 夜に入二度
11月3日 九時地震に付、一同起出候也。
11月10日 四時過小地震 夜四時過地震
11月12日 五時頃地震両度也
11月18日 今暁六時過地震 長し
11月19日 明六時過地震
11月24日 丑の刻・卯の刻後両度地震
11月25日 未の刻前地震
11月29日 鮫橋一行院にて明暮両度六時鐘、地震以来休、廿六より又始む。
12月2日 さち 次男出産。
(地震とは関係ないのですが、
大地震を経験した2カ月後に娘のさちが無事出産しています)
【安政3年/1856年】
1月4日 夕七時頃地しん
1月7日 亥時地震
1月9日 昼九時地震、夜五時過又地震
1月13日 両度地震
3月25日 八時頃地震
3月26日 五時頃地震
3月29日 戌刻前地震
4月6日 四時頃地震
4月26日 七時頃地震
7月28日 今晩六時地震 玄関迄一同出る
10月1日 今朝五半時頃地震
10月7日 五時過地震 余ほど震ふ
---安政4年は日記の現物が残っておらず---
【安政5年/1858年】
1月13日 朝五時頃地震
2月26日 八半時頃地震
5月4日 夕七時過地震
6月8日 四時過地震
路の日記を読むと、安政2年10月2日の安政の大地震がいかに大きいものだったかわかります。
また、互いに見舞いをしあったり、被害の状況報告を地区ごとにまとめるシステムがあったことがわかります。
またこの地震のあとの余震が多かったこともわかります。
◇安政の大地震に関しては記録集『安政見聞誌』(仮名垣魯文編一勇斎国芳ほか画)が安政3年3月に、
『安政見聞録』(晁譱著 服保徳編)が安政3年6月に出版されています。
パブリックドメインより
ネットで閲覧/
どちらも早稲田大学古典籍データベースで閲覧可能。
「安政見聞誌」は
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03754/index.html
「安政見聞録」は
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo01/wo01_03755/index.html
国立公文書館の今月のアーカイブ『安政見聞誌』『安政見聞録』
ttp://www.archives.go.jp/owning/monthly/1006/archives_index.html
では本の概要をハイライト的な絵とともに紹介していてわかりやすいです。
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