雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その2)文筆に導かれた人生&ただし書き
滝沢馬琴の長男宗伯と結婚して一男二女をもうけた土岐村路(ときむらみち) 。
江戸時代に精通しているわけではない私が言うのもなんですが、
路は江戸時代の特筆すべき女性の一人と思っています。
路の年表を簡単にまとめてみましょう。
(参考資料『曲亭馬琴日記別巻』 柴田光彦編/中央公論新社 2010)
文化3年(1806年) 6月6日誕生。名前は鉄。
文政10年(1827年) 22才。馬琴の長男宗伯と結婚。鉄から路に改名。
文政11年(1828年) 23才。長男太郎を出産。
天保元年(1830年) 25才。長女つぎを出産。
天保4年(1833年) 28才。次女さちを出産。つぎはさき(馬琴の長女。つぎの伯母)の養女となる。
天保6年(1835年) 夫宗伯が39才で亡くなり、路は30歳で未亡人となる。
天保9年(1838年) 馬琴の妻の百(路の姑)が路との同居を嫌がる。
天保12年(1841年) 36才。視力が衰えた馬琴に替り『八犬伝』の代筆をする。
以降、路は馬琴の口述筆記をおこなうようになる。
姑の百が78才で亡くなる。
嘉永元年(1848年) 43才。馬琴が82才で亡くなる。(晩年の馬琴の日記は路、太郎が代筆)
嘉永2年(1849年) 44才。「路女日記」として、日記をはじめる。
息子太郎が22才で亡くなる。
嘉永4年(1851年) 46才。次女さちが19歳で吉之助と結婚。
嘉永6年(1853年) 48才。次女さちが長男倉太郎を出産。路の初孫。
安政2年(1855年) 50才。安政の大地震を経験。次女さちが次男力次郎を出産。
安政5年(1858年) 53才。8月17日に路亡くなる。4日前まで日記を書き続ける。
その人生、何が他の女性と違うかというと、
(1)嫁いだ先が馬琴の家だった。売れっこ作家であり、
日本で文筆業だけで生計を立てた最初の人物ともいわれる家に嫁いだのは特異といえるでしょう。
(2)馬琴の代筆という必要性があったため、文筆をおこなった。
(2)に関して。
目が不自由になった馬琴に替り、口述筆記をはじめた路。最初は不慣れなためか誤字があちこちに。
ですが次第に誤字も減り、文章も上達していくのがわかります。
『路女日記(みちじょにっき)』木村三四吾(みよご)編校(八木書店 1994)
のまえがきは路の生き方がよくわかる内容ですが、路が馬琴の執筆を助ける様子を木村氏はこんな風に記しています。
(以下、この本からの引用部分は青文字。路の文章はすみれ色文字)。
馬琴、ほぼ天保10年前後より衰眼の兆あり、十一・十二年と視力とみに減じ、遂に盲に至る。
以降、その作品・書翰・日記等凡そ筆録の一切、多くは路女への口述筆記になり、
時には路女、琴童の名を持って父翁の作に擬することさえあった。(p2)
ところで、馬琴にとって日記は個人のものではなく「滝沢家」の記録として重要だったようです。
木村氏はこう続けています。
馬琴にとって、日記とは、単にわが一個の私記たるにとどまらず、
そのまま滝沢の家の歴史につながる、家記としてのいわば公的な性格をも持ち、
家長たるものの最も厳粛大切の義務、との自覚があった。 (p3)
馬琴は、家族が今日下痢を何回したかということまで詳細に記しています。
きわめつけは長男宗伯(路の夫)が亡くなった時のこと。
悲痛な思いの中で、馬琴はことこまかに愛息の臨終の描写をしています。
晩年、路に口述筆記、代筆をさせながらも日記を続けた馬琴。
そのおかげで、路の筆力が向上する様子を木村氏はこう述べています。
この年(私メモ/嘉永元年)十一月六日に馬琴は逝くのであるが、
記文(私メモ/馬琴日記のこと)の体、終没のやや前あたりからさすがに病舅父の見とり記風な、
お路自身の筆運びとなっており、馬琴遠行の当日さえなおかつ筆録を廃してはいない。
その日以後も従前に何の変ることなく、彼女は日記を書きつづけた。勿論、自分自身のものとしてである。(p3)
馬琴没後も「馬琴日記」として書き続けた路ですが、嘉永2年5月30日に
是より六月、新日記へ移る
と記し、嘉永6年6月からは新たな冊に日記を書きはじめます。
馬琴からの独立宣言、滝沢家の家長のような覚悟を感じ取れます。
(この嘉永6年6月以降、亡くなる安政5年までに書きあげた日記は10冊。
これが後に路の日記として刊行されるのです)
彼女の「日記」に対する責任感の強さは、息子太郎の死の場面でも感じられます。
馬琴が亡くなった翌年嘉永2年、太郎は22才の若さでこの世を去ります。
その壮絶な闘病生活を路は克明に記しているのです。
馬琴が我が子宗伯の闘病を記したように、我が子太郎の闘病を記す路。
馬琴とは血がつながっていない路ですが、まるでDNAを受け継いだかのような筆の運びを感じます。
そんな路も、太郎が亡くなった時はさすがに筆を止めてしまいます。
最愛の我が子に先立たれることの辛さが察せられます。
再び日記を再開するのは太郎の死からわずか二週間後!
その時、自戒の念を述べているのです。
九日(私メモ/嘉永二年十月九日。太郎が亡くなった日)以後、
愁傷腸を断心地して、筆とることもいとはしく、後の為にと日記しるさんと筆とり候えば、胸のみふたがり、
一字もかくことかなはず。(私による中略)蓑笠様(私メモ/馬琴のこと)
是迄被遊候御心中に背候も不本意に存候に付、思かへして、 又廿二日より涙ながらに記すもの、左之如し
私が現代語訳するほどではないですが、ざっくりと。
太郎が亡くなった9日以降、はらわたがちぎれるほど悲しく、
筆をとることも厭わしく、後のために日記に記そうと筆をとっても、
胸がいっぱいで一文字も書くことができなかった。
(略)けれども、家のために日記を書き続けてこられた蓑笠様(馬琴)の信念に背いていることも不本意なので、
再び22日から涙ながらに記しました。それが左のものです。
つまり日記を一日であっても休むのは馬琴の教え、滝沢家を守る者としての役割に背いていると感じているのですね。
まえがき(p4)ではこのように記されています。
日記に対する気構えのきびしさ、洵に目をみはるものがある。(私による略)
一日も日記は中断すべきでないというのを亡父蓑笠様馬琴の遺図遺訓と受けとめ、
一家に長たるものの、己が家憲として些かも違うまいとする、これこそが路女の日記意識というものであった。(私による略)
長年にわたる馬琴日記代筆の間、彼女自身が自ら体得し、やがて習・性となったものである。(私による略)
愛児を失い、その悲しみにうちひしがれての旬余にわたる空白に対し、
日記はむしろそうした非常をこそ書きとめておくべきだった、との血の出るような反省自責の文章である。
その筆致に関して木村氏は
書法既に往年の稚拙さはなく、殊に晩年に及んではむしろ巧緻老熟とも称し得ようか。(中略)
時には馬琴常套の口跡をさえも散見する。むしろ女の文章ではなく男のそれをさえ感じせしむ。(p5~6)
と述べています。
路の夫が普通に生きていたら、また、夫を早く亡くしても息子が生きていたら、
路が日記を書く必要もなく、後世に名が残ることもなかったかもしれません。
けれども、夫も長男にも先立たれたため、また、路が滝沢家や馬琴への忠義を持っていたため、
路は女性なのに日記をひたすら続けることになったのです。
ただ、路は日記を書き続けていたのは責任感だけではなく、文章を書く喜びを感じてしまったんだろうなと私は感じます。
たとえば。飼っている猫の仁助の具合が悪くなった時、その様子をこまかに描写しているのです。
さすがに猫は、滝沢家の記録に必要があって書いたとは思えません。
太郎の病状を記す中で身に着けた観察眼で、綴ってみたいという欲求が生まれたのかなと思います。
路は自分が書いた日記を子供や孫が目を通すことは十分意識していました。
孫の倉太郎が大人になった時に、
どんなに親が愛情を持ってあなたを育てたかを知るためにこの日記を読み返してほしいというようなことを書いています。
でも、まさか、後世、自分の日記が出版され、家族でもない人たちに読まれることになるとは想像していなかったでしょう。
さて、路は安政5年8月17日、53才で亡くなりますが、日記は亡くなる4日前の8月13日まで続けられていました。
たまたま馬琴の家に嫁いだこと。夫、息子を亡くし、
自分が家を守らなければという辛い境遇が彼女を「執筆」に出会わせ、文筆という才能を開花させてしまったのです。
路は歴史に大きくかかわる人物ではないけれど、他の一般的な江戸時代の女性と比べたら、劇的な一生だったなと思います。
(もちろん、現代より病気ひとつが命取りになる時代。すべての女性の人生が波乱万丈で、誰一人、平凡な人生ではなかったと思いますが)。
私自身が路家族を把握するために家系図を作ってみました。
必要なところだけをピックアップしています。
水色は男性。ピンクは女性。赤の四角は馬琴の血を受け継いでいる子孫です。
クリックすると拡大します。
(あくまでも参考資料にと作成したものですので無断転載ご遠慮ください)。
橘の前に死産の子供がいるようなので、正確には橘は長女ではないかもしれません。
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◆◆ただし書き◆◆
滝沢路の日記シリーズ(その3)以降は日記から要所をピックアップしてご紹介します。
そのただし書き。
●滝沢馬琴は曲亭馬琴もしくは滝沢興邦という言い方が正式と思われますが、
「滝沢馬琴」がポピュラーであるのでこのブログでも使用しています。
●嘉永2年~5年は
『路女日記(みちじょにっき)』木村三四吾(みよご)編校(八木書店 1994)の引用です。
嘉永6年~安政5年は
『瀧澤路女日記 下巻』柴田光彦編(中央公論新社 2013)からの引用です。
●表記は私がアレンジしています。正月六日を1月6日にしたり、
旧漢字を新漢字にしたり、明らかな誤字は直したり、カタカナで書かれた助詞をひらがなに直すなどをおこなっています。
●日記からの引用の際、私が写し間違えた誤字脱字などがあるかもしれません。
今後加筆修正もありえますので、無断転載はご遠慮ください。
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