雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その6)手を焼いた孫倉太郎と力次郎
曲亭馬琴(滝沢興邦)の日記も面白かったのですが、まさかそれ以上に路の日記にはまるとは思いませんでした。
滝沢路の日記シリーズ。その6は孫の倉太郎についてです。
今回、ものすごく長いです。疲れたら、遠慮なく読むのを挫折してくださいね~。
路は一男二女(たろう、つぎ、さち)をもうけますが、長男太郎は22歳で病死。
長女つぎは夫宗伯の姉の家へ養女になってしまいます。
(つぎは子供ができず。後に、さちの娘、橘(きつ)が養女となり、
馬琴の血を受け継いだ「滝沢家」が続いていくのです。cf.その2の家系図。
ですので、路にとって次女さちが産んだ倉太郎が初孫となります。
この倉太郎にはとんでもなく手を焼いたようです。
路の日記に毎日のように登場するのですが、
「むづかる」「むづかる」「難義也」「難義也」の歎きのオンパレード。
どう手がかかったか。
(1)病気や怪我…倉太郎は脾疳(ひかん)だったと記されています。
この病気は、下痢、異常食欲、やせていくけど腹がふくれてくるなどの症状がある小児のかかる慢性胃腸病のようですね。
よく言われる「かんの虫」のかんはこの疳のことです。
路は毎日のように、倉太郎大便が何回出た。今日はでない、と記録を残しています。
人類でこれほど、日々の排泄記録を残された人はいないかも、というくらい。
またやんちゃをして怪我する様子も克明に描写されています。
(2)性格・・・推測ですが日記を読むと癇癪持ちかも
(路は吉之助、つまり義理の息子の性格を癇性だと批判しています。受け継いだのでしょうか)
(3)路自身の問題…倉太郎はむづかる子だったのでしょうが、
路自身の問題もあるかもしれないと私は勝手に推測しています。
というのも、路が倉太郎の面倒をみていたのは40代後半から亡くなる53才の時まで。
体力が落ちる年齢ですし、いわゆる更年期障害が起きておかしくない年齢。
30代だったらやんちゃな幼児についていけたのかもしれなけれど、
アラフィフの体力で<24時間倉太郎と一緒>は相当きつかったはず。
そのため、30代だったら「難義」でなかったことが「難義」になってしまったのかなあとも思いました。
以上、私が路日記で勝手に感じた独断です。
では、路日記上下からの倉太郎に関する記述をご紹介します。
※長くなりますがこれでもごく一部の抜粋です。
※青文字は引用部分。黒文字は私メモ。
※赤文字は私が勝手につけた見出しです。
※ただし書きは(その2)をご覧ください。
※(略)というのはすべて私の判断で略しているものです。
では、倉太郎が誕生した嘉永6年2月6日から見ていくことにしましょう。
【嘉永6年】
2月6日 倉太郎誕生
おさち今朝より産気付候所、夕七時頃よりますます催候に付、
吉之助帰宅五暮時前とりあげおまつ婆を呼よせ、吉之助湯を焚、
おさちに催生湯を薦め、其後水天宮神札を載せ、
夜に入五時安産、男子出生。家内一同安心。
2月7日
今朝吉之助、組合小屋頭田辺礒右衛門殿へ出産届に罷越。
2月12日 七夜
今日出生七夜祝儀に付、赤飯・一汁四菜、平(半月半ぺん・くわゐ・長いも・ミツバ・芹・花麩)、
汁(ツミ入・松皮どうふ・青み)、皿(うど・まぐろ・赤みそ)、
猪口(むき身・いりどうふ)、香の物沢庵・京菜、焼物(大イナ、或はほうぼう、或はモイヲ)十八人前、
吉之助母義・吉之助・自、右三人にて調料致。( 中略)
出生へ倉太郎と名付候間、同人に認め貰。(中略)
出生産毛を自剃遣す。其後とりあげ婆おまつ来る。犬張子・手遊がらがら持参す。
(お七夜のお祝いが随分豪勢ですね。18人前つくるのだからすごいです。
路は自分のことを「自」と書いています。路が倉太郎のうぶげを剃ったのですね。
手遊びとはおもちゃのこと。産婆さんが倉太郎にプレゼントしたのが犬張子とガラガラ。
今だったらどらえもんやミッキーのぬいぐるみだったりするのでしょうが。
時代は違っても動物の形のものや音のでるもの、
赤ちゃんが興味を示すものは一緒なんですね)
3月23日
倉太郎はおもちゃの風車をもらいます。
端午の節句が近いからでしょう。倉太郎は4月30日に金太郎人形、5月1日に金太郎裸人形をもらいます。
5月4日
今日表門・玄関・勝手口へ菖蒲・艾(よもぎ)を葺。倉太郎初端午為祝儀。
(つくりものの鷹をもらっています。
端午の節句の時に菖蒲湯に入るというのはおなじみですが、
菖蒲を門などに飾っていたことがわかって興味深いです)
5月21日
倉太郎昨夜より熱気有之候所、今朝も益甚しく、終日終夜むづかり、甚難義也。
全く風邪より虫出候容躰に付、奇応丸両度用ひる。
5月23日
倉太郎熱気醒候へども、気力不常、兎角やかましく難義也。
7月1日
倉太郎今日も熟睡せず。終日替るがわる抱れ、家内難義限りなし。
倉太郎が手におえず困っている歎きが日記に多く綴られています。
10月19日
今日吉日に付、自、倉太郎綿入衣立縫致、今晩一つ出来也。
(手を焼きながらも、路は祖母として、路は倉太郎のために縫い物をしてあげています)
11月1日 箸揃祝儀
今朝榎本氏御老母被参、手みやげ焼さつまいも・手遊二種・根かけ三つ持参被贈之。
今日倉太郎箸揃祝儀致候に依て也。
今日吉祥日に付、倉太郎箸揃祝儀、一汁三菜、汁(白みそ・とうふ・焼たまご・青み)、
平(青葉・半ぺん・はす)、皿(煮魚)、猪口(せん切にんじん) 香の物(なづけ)、
取肴(甘露なす・きんとん・はす・小ぐし)、吸物(海老・麩)、皿(猪口・むきみ・ぬた)、
焼肴(メジかつお)等調理致 (以下略)
(箸揃祝儀というのはいわゆるお食い初めのことですね。
榎本氏御老母というのは吉之助の母、つまり倉太郎のもう一人の祖母にあたる人物ですね。
手土産やおもちゃを持って訪ねてくるところに孫、倉太郎を慈しんでいる様子がうかがえます。
以下この人物は勝手に「榎本バーバ」とします。
榎本バーバは頻繁に登場。路やさちのかわりにお守をしたり、力になってあげた人物です)
11月7日
倉太郎、麦藁細工の玩具をもらいます。
【嘉永7年】
1月14日
隣家おつぐ殿倉太郎を背おひ候所、手をはつじ取落し、
倉太郎頭をうち、むづかり、早々吉之助抱あげ帰宅、
奇応丸を用ゆ。其後何の障りなし。
(倉太郎、災難でしたね。おんぷの手がはずれて転落して頭を打ってしまうなんて)
2月6日 1才の誕生日
今日倉太郎誕生日に付、ささげ飯・一汁三菜、平(かいす魚・せり・長いも)、
汁(わかめ・しらす)、皿(うど・むきみ・すみそ)、猪口(ほうれんさう)、
香の物(たくあん)、丁理致、伏見氏へ三人前、大内氏へ二人前、山本・深田・生形へ壱人前づつ遣之。
山本氏より手遊ひごい・せんべい一包、うつりとして被贈之。
(倉太郎1才の誕生日。些細なことが命取りになる時代だから、
赤ちゃんが無事1才になったことの歓びは一層大きかったことでしょう)
3月9日
倉太郎、中国風のものでしょうか。棕梠細工のおもちゃをもらいます。
3月12日
倉太郎、棕梠細工馬・麦藁細工唐人笛をもらいます。
3月26日
倉太郎去る十七日より熱気有之候内、今日は気六ケ敷、面部手足に水とふ様の物見ゆる。
4月16日 歩きはじめる
倉太郎、当月三日よりニ、三歩足出候所、昨今は二軒ほどは歩行す。
(そろそろ歩きはじめる時なのですね)
5月4日
如例年、門・玄関・勝手口・裏口に艾・菖蒲を葺。
6月1日
榎本バーバが倉太郎へ鰻三串とせんべい1袋をあげます。
6月14日
倉太郎此せつ歩行、自由に門外或は庭内菜園へかけあるき、
遊、いたづら致、守のもの甚困る也。
(ざっくり訳してみます。倉太郎がこのごろ歩くようになった。
自由に門の外や庭の野菜畑をへ走って、遊び、いたづらをする。
お守をするものはほどほど手を焼いている。
子育てした方は、ご自身のお子さんが歩き始めた時のことを思い出される描写でしょう)
7月7日
紙細工の虎と獅子のおもちゃをもらいます。
いつの時代でも子供は動物のおもちゃが好きというのが面白いですね。
7月17日
今日五時過倉太郎起出候所、き嫌あしく困り居候所、
腹痛候やう子にて、殊の外苦痛致候に付、熊胆を用ひ候所、忽地痛退候て遊候也。
(おなかが痛くなった倉太郎、熊胆が効いて、たちまち痛さがなくなって遊び始める様子が目に浮かびます)
閏7月10日
今晩も倉太郎やかましく、難義也。
8月6日
倉太郎兎角むづかり、今日も終日人手不放、甚難義也。使君子・貝母煎用す。
9月17日
今朝より倉太郎面部左り方腫、眼もふさがり、風邪故驚、安事、終日むづかり母の手不放。
(顔が腫れあがってしまっている倉太郎、一日中、むづかって母さちの手を離さない様子が目に浮かびます)
9月18日
倉太郎今日も面部の腫不宜。然ども今日は元気少し出、折ふしひとり遊、夕七時睡りにつく。
11月24日
倉太郎、すかとんび(鳶)たこ(凧)を2つもらいます。
路の日記を読むと、当時の男の子の玩具がよくわかります。
【安政2年】
1月10日
倉太郎、おもちゃの神輿をもらいます。
1月11日
今晩九時頃迄倉太郎熟睡致候所、夫より終夜むづかり候に付、自起出背ひ抔致、
其後又母に抱れ候所、目を覚し、暫く遊。
余りむづかり候に付寝間を取替、四畳に臥しむ。明六時頃より又睡につく。
(ざっくり訳します。
今晩9時頃まで倉太郎は熟睡していたが、その後、終日むずかるので、
私が起き出しておんぶするなどした。
その後、母親のさちが抱いたところ、倉太郎は目を覚まし、しばらく遊んだ。
あまりにむづかるので、四畳の部屋で寝させた。明六つの頃からまた眠りについた)
1月23日
倉太郎夜中両三度起出、母の懐を放れ、祖母に背おはれ睡りにつき、其上母の手に行。
(夜中に目をさました倉太郎を路がおぶって、あやすと、倉太郎はまた眠りについて、
母の手元に行く。その様子が目に浮かびますね)
2月6日 2才の誕生日
今日、倉太郎誕生日に付、大角豆飯・一汁三菜、平(半ぺん・みつば・芹・いろ麩)、
汁(かき・とうふ)、皿(うど・むき身・からしすみそ)、猪口(はうれんさうひたし)、
香の物(からし菜)、丁理致、大内氏・伏見へ遣之。
3月2日 将棋の駒事件
(と勝手に名付けたいようなことがおこります。
太田氏の家に出かけた倉太郎が、ちらかっていた将棋の駒で遊んでいたところ、
太田氏が倉太郎の駒を取ろうとします。
でも倉太郎は手放さなかったため、太田氏が強引に奪おうとします。
その際、倉太郎は頭を強く打ったということがあったのです。
以前にも太田家へ倉太郎が遊びに行った時に、やはり駒が無くなって、
倉太郎が疑われたことがあったのです。
結局持って帰ったのは他の子だったのですが、子供が大勢いたにもかかわらず倉太郎が疑われたのです)
全く倉太郎失ひ候にもあらず、持帰り候にもあらず、
外よりも子供大勢被参、被遊候ゆへ、何れ也や不分候得ども、
倉太郎と被申候は厄難也。
譬(たとえ)倉太郎・おさと殿失ひ候にもせよ、替の駒持参せよといわるるは余り野人にて、
百五十俵の人物のいはるるとはおぼへず。
大笑致べし。以来は必遊に不可参と申置。
(太田氏のことをあまりの野蛮人で、大笑いすべしと
厳しい口調で書いているところに路の立腹具合がみてとれますね)
4月3日 前歯折る
(倉太郎、前歯を折ります。上歯を無理に取ったので出血します)。
今日倉太郎気むづかしく候所、誤て口を打、前歯を損じさせ、初は是を不知、
腹痛ならんと手当致候所、左にあらず。
上歯むりにとり、跡より血出、むづかり候事甚しく、ふびん限りなく、終にねむりにつく。
(倉太郎が相当痛がったのでしょう。路は「ふびん限りなく」と祖母としての愛情をみせていますね)
4月11日
(医者に倉太郎の口をみてもらいます)
倉太郎歯痛め候跡を見せ、薬を乞ん為(以下略)。
(調合された薬は 粉薬燕脂散二包。1包につき紅24文ずつ煉合、
塗るように言われたようです。
また、立効散1包を口中薬としてもらったようです)
4月18日
榎本バーバ、柏餅とおもちゃの斧を持ってやってきます。
4月26日
倉太郎、20日以来うんちが出ていないことが書かれています。
4月27日
倉太郎大べん少し通ず。
4月28日
倉太郎今日も大べん両三度通じ候へども、肛門痛候故、つかれ候様子にて、両度仮寝す。
(便秘つづきで肛門が痛くて、つかれて二度うたたねをする小さな子の様子が目に浮かびますね)
この日は倉太郎の父吉之助が柏餅用の葉を伐採しにいきます。
4月29日
今朝より白米四升余を挽。明朔日柏餅拵候故也。
5月1日
(柏餅づくりの様子が書かれています)。
家廟へ供し、親類其外、近隣へ壱重づつ進之、家内一同祝食。
(18軒の配ったようです。
榎本バーバ、おつぎ、吉之助も手伝い、八時過につくり終ったのだとか。
柏餅は子孫繁栄を願って食べられるもの。
倉太郎が無事健やかに成長しますようにという家族の願いもみてとれますね)
5月3日
さちが倉太郎をつれて買い物にいきます。
倉太郎の衣類の生地を買ったり、腹掛紐、涎(よだれ)かけなどを買っています。
5月4日
路が朝から一日がかりで倉太郎のひとへぎぬ、よだれかけを仕立てます。
ミシンがないから大変ですね。腹掛けはさちがつくりました。
金太郎みたいな腹掛けをした倉太郎の様子が目に浮かびます。
5月29日
倉太郎此節乳放に付、気むづかしく、食物多くのぞみ候に付、雑水をこしらへ、与之。
(乳離れの時期の倉太郎。少しずつ成長している様子がわかります)
7月7日 歩きたがらず
(倉太郎を歩かせようとしても歩きたがらない様子がわかります)
夜に入、自・おさち、倉太郎同道伝馬町へ行。
倉太郎此節不快、痺癇の様子に付、歩行させん為也。
然る所一向に歩まず、ぞふり・さとう・抹香・薬種等買取帰たく。
(母親や祖母が歩かせようとしても、
むっとして歩こうとしない倉太郎の様子が目にうかびます)
7月9日
自・おさち替るがわる守致候へども歩行を嫌ひ、只々食物をのぞみ、むづかるのみ。
今日も残暑に候得ども、倉太郎に手がかかり、難義かぎりなし。
7月12日
(大人たちが歩行させようと、倉太郎にあれこれ試みますが、
断固歩くのを嫌がる倉太郎の様子がおかしいです)
今早朝倉太郎を携、おさち小連へ行、自も付添行。 (略)
往還とも倉太郎歩行為致度、種々すかし候へども歩行せず。
(夕方、吉之助が倉太郎を連れ出します)。
天王様にてあすばせ候へども、歩行せず、但し少し社内歩行致候よし也。
(その後、夜、倉太郎は「脾疳(ひかん)」になったと書かれています)
7月13日
(例年はおだんごを手作りしている路ですが、
倉太郎に手がかるためこの年は作るのがむずかしく、餡だんごなどを買うことにします。
倉太郎を連れてでかけ、また歩行訓練をさせる様子が書かれています)。
行帰りとも天王様社内にて歩行為致たく、いろいろ致候ても多く不歩。
残暑つよき折から、背歩き候苦心おもひやるべし。(略)
長安寺門前より倉太郎睡に就く。
(子供だましをいろいろやって歩かせようとしてもそれに乗らない倉太郎の方が上手。
残暑の中、倉太郎をおんぶして歩く路の大変さが伝わってきます)。
7月14日
榎本バーバがせんべい、倉太郎用の茶づけ茶碗などのお土産を持ってやってきます。
倉太郎に手がかかってお盆の準備ができない路たちを助けるためにやってきたのです。
その有難さを路は
助られ候事、暗夜にともし火を得たる如し
と書いています。
7月16日
今日倉太郎少し順快。少しづつ歩行す。悦也。
少しずつ歩き出した倉太郎。路のよろこびがみてとれますね。
7月17日
倉太郎脾疳に付、蝑つけ焼致
(私メモ/蝑の読み方、意味わかりません。
きりぎりすを蚣蝑とも書くのでいなごの類でしょうか。
19日の日記を読むとやはりいなごのことかなと思います)
為給候へば全快可致由に付、昼後より廉太郎殿・弥太郎殿同道、御てんへ蝑取に行、暮時帰宅。
赤蛙二・蝑十八、九取来る。即刻倉太郎に給さしむ。(略)
(倉太郎はいやいやしながら食べたのかなあと推測します)
倉太郎今日は又不出来、終日歩行せず。
7月18日
(榎本バーバがやって来て、倉太郎を背負ってでかけます。
倉太郎は相手が榎本バーバであっても歩行せず。
こんなふうに記されています)
種々なぐさめ候ても歩行せず。(略)
終日食物を欲するのみ。(略)
吉之助今日もいなご取に行、又昨日の如く取来る。
倉太郎成人の後父母・祖母の厚恩を思ふべし。
外祖母榎本氏とても、暑さも厭はず、是が為に医師通。此おんもかろからず。
よくよく此日記を読見て、孝行を尽すべき也。
(非常に興味深い文です。
路が日記を書く意図が示されています。
自分の日記は後世、子、孫が読むというのを前提で書いているのですね。
ざっくり訳してみます。
倉太郎は成人した後に、父母や祖母が与えてくれた深い恩を自覚すべきである。
父方の祖母榎本氏も暑いのをいとわず、倉太郎のために医師の元へ通った。
この恩義は軽いものではない。
この日記をよく読んで、父母・祖母に孝行を尽しなさい)
7月23日
倉太郎少しずつ順快(略)おとなしく遊、少しは歩行も致也。
7月27日
(台風のようです。傘もさせないほどの南風。その中でも路たちは大変)
倉太郎両三日不出来。(略)歩行の気力少しもなし。
風烈(私メモ/台風のことでしょう)中といへども背おひ、門外へ出候事なん義限りなし。
(略)自・おさち休足の間なし。
このあとも、倉太郎のお守で大人たちが休むことができない難義な日々が続きます。
倉太郎はいろんな人からお見舞いやお土産をもらいます。
9月27日
吉之助が倉太郎を連れて千駄ヶ谷八幡宮の祭礼に出掛けます。
神楽見物をしておもちゃを買ってもらって帰ってきます。
おさちはマタニティ中。(出産はこの年の12月2日でした)。
身重なのに倉太郎のために休息をあまり取れないというのは本当に大変だったでしょう。
9月30日
倉太郎至極大人しく、昼は母を慕、よく遊。
夜に入祖母(私メモ/路のこと)と睡り、夜中は母の方へ行睡る。
大便両度通ず。
(大人しい、なんてめったにない記述です。なごやかなひとときだったのですね)。
10月1日
おさちが胸の痛さを訴えます。あまり調子がよくありません。
路は夕方倉太郎を連れて伝馬町に買物に行きます。でも、
帰路・行とも倉太郎不歩、甚難義也。だったのです。
10月2日 安政の大地震
(安政の大地震の当日です。路たちは自宅で経験しました。
この日、倉太郎は朝から具合がよくなかったことが記されています)
倉太郎今朝より熱気有之、誠にやかましく、
母おやならびに祖母の手を不放、食事も朝二ぜん給候のみ。
其外何も食せず、大便も不通。 (略)
今日倉太郎不快に付、終日うとうと睡り候に付、
今晩やかましく、傍にては睡り候事成かねと候存、自五時前より枕につく。
吉之助壱人夜職致居候所、四時頃大地震。
(江戸時代の時間は難しいですね。
夜の五つ時と四つ時では五つ時の方が時間が早いのです。
五つ時、四つ時が何時かは季節によってもかわりますが、
五つ時が夜八時頃、安政の大地震が起きた四つ時が夜10時頃でしょうか。
つまり、倉太郎がやかましくて、
隣では眠れないと路は夜の八時ぐらいから寝床にはいった。
そして夜の10時ぐらいの地震がきたということですね。
地震発生時、路は倉太郎を抱いて外にでようとします。
この地震の詳細はその3をご覧ください)
10月18日
吉之助は倉太郎を連れて実家榎本家にいきます。
父子で昼ごはんを御馳走になって駒下駄、こまのおもちゃ、おせんべい、飴などをもらいます。
10月23日 神のたたりか
(あいかわらず倉太郎は手がかかります。)
倉太郎今日も同様、兎角やかましく、人手かかり大困り也。
今日は少し朝粥を給、昼飯少し、夕飯は不給。
大便不通也。
此両三日おさち追々順快に候所、又々倉太郎風邪。
手を替品をかへ、心易き事なきはいかなる神の祟やらん。
(上記の言葉を現代語でぶっちゃけトークにしてみたら、
この2、3日やっとおさちの具合がよくなってきたと思ったら、
今度はまた倉太郎が風邪になっちまって。
手を替え品をかえ、なんでこんなに問題が起きるんだろうね。
心穏やかに過ごせることがないのはなんの神のたたりだろうね!!<`ヘ´>
て感じでしょうか。
びっくりしたのは私たちが当たり前に使う
「手を替え品をかへ」という言葉を路が使っていること。
江戸時代から使われていた言葉だったとは意外です。
10月27日
朝、倉太郎はめずらしくおだやか。だけどみるみる具合が悪くなります。
今朝は倉太郎熱気醒候て、機嫌よく遊、歩候也。
昼時来診がきたあと、
倉太郎面部より惣躰(私メモ/全身のこと)へ小瘡少しづつ出来に付、
疱瘡成べくやと存候に付間候所、未不分。
11月1日
倉太郎順快に付、月代を剃遣す。
11月15日 七五三。三才の祝い。
今日祝月、倉太郎三歳、髪置可致所延引に付、
態と内祝、ささげ飯・一汁二菜こしらへ、
家内一同祝食、諸神・家廟へ備もちを供す。
倉太郎が七五三の3才なので髪置きのお祝をします。
12月2日 倉太郎、弟が生まれる
(安政の大地震から2か月後、夕七時前にさちが男の子を出産します。
この日の日記で興味深いのは産湯に卵を一つ入れることです。
疱瘡が軽くなるというまじないだと記されています。
さて、倉太郎はおにいちゃんになったのですが、
この日、母さちを恋しがって大変だったようです)
倉太郎終日父と共に大人しく遊暮し候へども、
夜に入母を慕、困り候所、種々すかしこしらへ、九時過迄祖母と臥、
其後起出、又々母を慕ふこと宵の如く、
然る所吉之助叱り徴し候へば、父と明方迄臥す。
実に難義限りなし。
(さて次男はどんな様子だったかというと下記のように記されています)
出生の小児、倉太郎と違ひ冷候ゆへ、顔色あしく、
臍の緒三つほどからみ、出産手間取候に付、
小児直にあたため、まくり為吞候へどもよく不飲也。
12月3日
倉太郎大便不通。
日中は大人しく遊候へども、夜中は兎角母を慕、やかましく候所、
四時過より祖母と臥す。
明方より吉之助代り、抱きて睡り候也。
(赤ちゃんにお母さんをとられてさみしいのでしょうね。
次男は力次郎という名前になります)
12月23日
路、さち、孫二人、およしが「おろじ町」へ入湯に行きます。
倉太郎はやかましく候に付、替るがわる入湯。
力次郎初手入湯に付、湯せん十二文遣す。
(倉太郎はあいかわらず手がかかっていますね)
12月27日
倉太郎、めずらしく至極おだやかにて、おとなしく候
12月29日 成人した倉太郎に見せたい
<安政2年の最後の書き込みはこの29日。
路が日記を「家の財産」として遺そうとするが意思が記されています)
此日記は倉太郎脾疳を病煩ひし年の日記なれば、
倉太郎成人の後見せて、親の看病苦心を知らしむべし。
倉太郎孝心あらば、父母を必大切に存、孝養を尽すべき也。
若是をしも思はずは、人にして人にあらざる也。
且、力次郎誕生年の日記なれば失ぬやう心に可被掛者也。
(ざっくり訳します
この日記は倉太郎が脾疳をわずらった年の日記なので、
倉太郎が成人した後にみせて、いかに親が苦労して看病したのかを知らせなさい。
倉太郎に孝行の心があれば、必ず父母を大切に想い、孝行して面倒をみてくれるであろう。
もしこの日記を見ても親に感謝をしなければ、人間ではない。
また、これは力次郎の誕生の年の日記でもあるので、
無くすことのないよう心掛けてほしい。
という意味になりますでしょうか。
さて、この日記が関東大震災、第二次世界大戦他を経ても、
焼失も紛失もせず、
現在一般の図書として出版までされるとは路は想像もしていなかったでしょう。
路の想いが成人した倉太郎に伝わったかどうかはシリーズ(その10)で)
【安政3年】
1月3日
窓の月(私メモ/当時流行った最中)、大奴風鳶(私メモ/凧の一種かと)をもらいます。
1月30日
今日倉太郎大便不通。力次郎昨今やかましく、折々鼻血出、鼻つまり、困り候也。
2月18日
倉太郎頭右の方少々、足膝頭腫、痛。
この故にやかましく、多く歩行せず。大便は通ず。
3月9日
今日も自・おさちいたづらに日を暮。子供両人に手かかり、何事も不出来也。
(男の子が二人になって祖母、母二人がかりでも手に負えず、何もできない様子が目に浮かびますね)
3月14日
榎本バーバが浅草のお土産として倉太郎へ脇ざし一本、力次郎へおしやぶり一つプレゼント。
3月15日
子ども両人月代を剃、力次郎はゆあみを致す。
4月9日
倉太郎、猫のおもちゃをもらいます。 ぬいぐるみのようなものでしょう。
4月27日
倉太郎風邪之方は順快に候所、口中腫物出来、崩れ、食物甚不自由。
右ゆへ一入やかましく、左もなき事に泣騒、
家内一同替るがわる守致、休足なし。
(口の中の出来物のため、思うように食べれない倉太郎。
やかましく泣き叫ぶため、大人が交代でお守をして疲れ果てる様子が目に浮かびますね)
5月5日
昼後自、倉太郎同道天王へ参詣、同所社内金毘羅権現へ今日より日参を始む。
倉太郎は当月より七才迄月参也。
5月26日
倉太郎、赤蛙をもらいます。
5月29日 やけどする
夜に入一同ゆあみ致。
倉太郎跡へ残り、遊び居候所、おさちさしゆ致せつ、
倉太郎右之足を入、さしゆをあみせ候に付、湯傷致。
大泣致し、直に胡瓜水をつけ、
一本松山崎氏の湯傷咒御守にて撫、そくい・黒薬を塗置。
差たることも無之、無程睡りにつく。
(湯あみをした時にお湯が熱くて倉太郎が右足をやけど。
大泣きの様子が目に浮かびます。
やけどに胡瓜水が効くとされている様子も興味深いです。
たいしたやけどにならず、倉太郎もほどなく就寝できたのがよかったです)
6月11日
昨今暑甚しく、昨日の暑さ寒暖計にて九十七分の由也。
往来火鉢の内歩行する如く、人々難義甚し。
此故に野菜都て高料、白うり一つ十二文くらい、なす十に付廿四文くらい、午房は一入甚しき高料也。
(猛暑のアスファルトを歩く時、フライパンの上を歩いているみたい。
と表現したりしますが、
路が猛暑の道を歩くことを、
「火鉢の内側を歩いているみたい」とたとえるのが私たち現代人の感覚と近くて面白いです)
6月12日
倉太郎は幸次郎に、力次郎は力三郎に改名。
6月28日
幸次郎(倉太郎)が健康のために虫を食べます。
今朝およし殿赤蛙持参、被贈之。
即刻つけ焼にして幸次郎に為給、外にくさぎのむし二疋を用ゆ。
7月2日 歯がはえかわる
幸次郎上歯上へ抜出候て少し痛候に付、
右同人へ頼候所、右は糸にてしばり置候様被申、
右糸を被授、三、四日目位に糸取かへ候様被申。
7月5日
幸次郎今朝上歯しばらんとしても結りかね、
いろいろ工風致候ても宗仲殿被申候如く出来かね候に付、
其儘捨置候故にや、口痛致候よし
(このあと診療に行く記録あり)
7月27日
力三郎跂(はい)廻し、昼寝もろくろく不致。
(下の子も動き回るようになると、滝沢家、さらに戦場ですね)
8月9日
幸次郎益順快、赤蛙二疋到来、是を食す。
8月13日
夕方大蛙壱つ、今田安太郎殿被贈之、其後廉太郎殿同様一疋持参。
直に焼候て幸次郎に進む。
(幸次郎、何度も赤蛙を食す羽目になっていますねえ)
9月3日
雨天に付、子供遊に困り、終日家内にて遊。自何事もせず、甚しき取込也。
(雨で子供たちが家の中で遊ぶから、
路自身は手がかかって何もできなくて困っている様子が伝わってきますが、
幸次郎と力三郎がキャッキャキャッキャはしゃいで楽しんでいる様子も目に浮かびますね)
10月12日
自綿入昨今張畢候間、今晩縫かかり候へども、幸次郎度々目をさまし候に付、
やうやく表を仕立候のみにて、子の刻に成候に付、跡は枕につく。
当年は力三郎有之候に付、仕立もの間に不合、自綿入未出来不致、今以袷衣。
寒さにたへかね候へども寸暇なく、五十一才に成候てかく迄なん義致候事、
実にたんそく限りなし。
誠に薄命の者と憐むべし。
然どもさいわいにおつぎあり。
彼は少しく孝行の心ざしあり、母親を思ふこと篤かり。
折々物を贈りて親を助け、並に妹甥抔(など)に小切をおくり、
どふ着抔の料にせよとて度々おくりこし候事、是にて心なぐさめ候也。
(路は51才になったのですね。いろいろ嘆いていますね)
10月13日
榎本御老母(私メモ/榎本バーバのこと)御出。
此方世話しく、前書之如く自綿入さへ出来ず候に付、手伝の為也。
(榎本バーバがサポートに来てくれるのはありがたいことですね)
12月2日 弟の誕生日
今日力三郎誕生に付内祝、
ささげ飯・一汁三菜、汁(白みそ・つとどうふ・かきあ□)、
平(半月半ぺん・青葉・やつがしら)、皿(大こん、ばか酢みそ)、
猪口(菜、かつをぶし)、香の物(なづけ・みそ漬大こん)等調理致、家内一同祝食。
頭つきさより・あいこ。四時過おつぎ来る。
手みやげ窓の月一折・蜜柑十五持参。
12月9日
幸次郎月代を剃、昼後力三郎同道入湯に行。
力三郎両三日以前より三足四足歩行出来す。
(次男力三郎もいよいよ歩きはじめましたね)
12月15日
暮時過嘉七来る。二枚半だるま風鳶持参、幸次郎へ被贈。
先刻幸次郎ねだり候由也。
(幸次郎がねだった鳶凧をあげるために嘉七がやってきました。
みんなから可愛がられていますね)
12月26日
力三郎風邪順快には候へども、兎角やかましく、手放しかね、難義也。
12月28日
榎本バーバがやってきて、幸次郎へ日和下駄・奴風鳶、力三郎へ花たび・奴風鳶をプレゼント。
---安政4年は日記の現物が残っておらず---
【安政5年】
2月14日 七五三の5歳のお祝い。袴着祝儀。
旧冬幸次郎袴着祝儀、足袋料銀壱朱被贈候謝礼として、
かつをぶし三本入壱袋、外に祖太郎殿小児おかうどの初雛に付、白酒料として銀壱朱進之
(私による略)。
着実に成長している様子が見てとれます。
6月6日 文字を覚える
幸次郎手習い筆初め、双紙二双いろはを習ふ。
(文字も書けるようになってきましたね)
---路はこの年の8月17日に亡くなるので以下の日記は路の娘であり、幸次郎、力三郎の母である、さちが執筆しています---
10月13日
今日も力三郎兎角やかましき事申、少しも手はなれず、一日もり致す。
夜に入少しもふせり不申、やかましく一夜をおくる。
路は何度も幸次郎が手がかかることを嘆いていましたが、次男力三郎も同様なのですね。
10月16日 幸次郎、流血
今日しう日(私メモ/終日のこと)力三郎同様にて、むづかしく、少しも手はなれ不申、一人にてこまり候。
幸次郎大田うらにてあそび折候所、おふらいより切石ほふり、
幸次郎めんてんへあたり、きづぐち五分程、ふかさ弐、三分程も切こみ候得供、いたし方是なく候に付、
弥太郎・為次郎同道致候所、いろいろとあやまり申候に付、そのまま帰宅す。
12月2日
今日力三郎誕生に付、赤飯たき、平・皿・猪口・汁こしらへ、
およし殿・弥太郎へふるまひ置、一人前小林へつかはす。
ご紹介は以上です。
子供たちの日々の様子が伝わってくる描写の数々。女性ならではの日記目線を感じます。
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