雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その9)路の最期
滝沢路(みち)の最期。
路は安政5年8月17日に53才で亡くなります。
原因は当時江戸で流行っていたコロリ(コレラ)だと思われます。
というのも8月8日の路の日記に、
・江戸の町で流行り病が起きていること
・その症状について、元気な人が下痢、お腹の張りなどに見舞われ、一日二日のうちに亡くなること
が書かれているからです。
路が具合が悪くなるのは8月15日の未明です。そしてみるみる悪化。
17日朝に亡くなってしまうのです。
路の日記最後の執筆は8月14日。亡くなるわずか三日前まで日記を書き続けた人生でした。
では安政5年8月8日以降の路の日記を抜粋でご紹介します。
青字は引用部分。
ただし書きはその2を。
(略)としているのはすべて私による略ですが、それ以外のところも、要所の部分抜粋です。
8月8日
(私メモ/西暦1858年9月14日。悪病が6月から流行っていること。その病を防ぐまじないが書かれています)
残暑。
此節流行病、壮健にてありし人、心地あしく覚候へば水瀉いたし、
其上腹内はり、大脳の上、一日か二日の内死去致候もの、
6月27日頃より赤坂辺多く候所、此節所々の多く損じ、一同おそれ用心候事。
右咒(まじない)、京都より参り候火にて出入りの敷居に灸事致候へば、右病難のがれ候由。
およし殿、右之火寺家村より持参の由。
直に吉之助足跡へ三ケ所つまさき・きびす・土ふまずへ袋艾(よもぎ)を致。(略)
右まじないに門口へやつでの葉一まい・赤がみ一枚・杉の葉釣し候ば悪病のがれ候由にて、一同釣之。
6月末頃から赤坂あたりでこの悪病が流行っていることがわかります。
発症後一日二日で死に至る病。どんなに当時の人が恐れたことでしょう。
だからこそ藁もつかむ思いで、まじないにすがったのですね。
「京都より参り候火」と書かれています。
京都の火というと八坂神社の「をけら参り」を思い出しますが、
この「火」はどんなものだったのでしょう。
8月9日
此節悪病時行候に付、右防之咒也とて、てんぐ葉之八手壱枚・赤紙壱枚被贈之。
此ゆへに杉の葉・唐がらし三つ入、門口に釣置也。
流行り病のまじないとして、唐がらしが出てきますね。
江戸時代後期の錦絵「流行金時ころりを除る法」一秀斎芳勝画にも唐辛子は登場します。
唐辛子を病人の枕元でいぶすと治ったと描かれています。
内藤記念くすり博物館のサイト「くすりの博物館」(ttp://www.eisai.co.jp/museum/)
→人と薬のあゆみ→保健衛生→コレラでこの錦絵を見ることができます。
直接のURLはttp://search.eisai.co.jp/cgi-bin/historyphot.cgi?historyid=K00598
8月11日
冷気。
8月12日
冷気。
路は深光寺へ墓参りにでかけます。
8月13日
およし殿兄弟来る。時行病除候札也とて持参、認呉候様被申候に付、数枚したため進之、
小林氏・林氏へ人数ほど進之。其字
(私メモ/このあと書かれている文字はPCで再現不可)
此字枕の下へ布、明日川へ流し候由也。
8月14日
(私メモ/路が書く最後の日です。
寒い日が続いていること、7月上旬より送葬が多いこと、流行り病のまじないが書かれています)
冷気。昼後より残暑甚し。
此節時候甚あしく、朝綿入衣にても寒くおぼえ、昼後に至り候へば帷子にても尚暑し。
七月中旬より人々多損候事、此方門前すら一日五つ六つ位送葬を見候事也。(略)
八時過およし殿来る。尚亦悪病除札持参。右之札如此「天得天玉延命」。
寒暖の差が激しいことがわかります。
今の暦で9月中旬。
涼しい日が続いたあと14日午後から残暑がぶりかえしたことがわかります。
そして
八時過(私メモ/8月の八つ時なので14時頃)およし殿来る。
尚亦悪病除札持参。右之札如此「天得天玉延命」。
が路の最期の日記の一文となりました。
このあと路ではなく、娘のさちが母の日記の続きを書きます。
路の最期の様子を綴っています。
十四日夜八つ時ころ(私メモ/夜中の1時過ぎなので実質15日)より母心ちあしく候由にて
私らおこし候間、早々おき出、手あて致候所、大きによろしく、朝迄ねむる。
8月15日
今朝母大きよく、朝いいかひに致、一わんすすめ、
ひる時ころ月見団子、吉之助・われら両人にて是をこしらへ、神仏へそなへ。
夕方より母事きうによふす相かはり、嘉七殿むかへにまいり、
一夜とまりくれ候由に候聞、右留。
八つ時ころはなはなよふす相成候に付、飯田町へ人つかはし、
姉まいり候由申候所、六つ時ころ姉参り、十六日壱日看病致候所、
十六日夜はなはなあしく候所、ま事にま事に苦痛はなはなしく、
龍土はは・姉・私かん病致候所、十七日四つ過、りうじ相かなはず死去致す。
「はなはな」は「甚だ(はなはだ)」のことでしょう。
毎年8月15日の月見行事を欠かさない滝沢家。
路の具合がよくないので吉之助とさちが月見団子をこしらえたことがわかります。
なお、15日の日記は後に書いているので17日の死去のことまで触れているのですね。
8月16日
今朝林内義、母方へおかい・かつおぶしじさん致、すすめ候所、
ちゃんに七分目程も是をすすめ候所、少々たべ候得供、
それきり少々もこくるいをたぶる事なし。(略)
8月17日
早朝母事事の外よふすあしく候間、
姉・万平・吉之助・私まくらべに折、四つ時過死去致。(略)
8月18日
今日くみ合一同参り、かはるがはるつや致。(略)
以上の日記から路の最期をまとめてみますと。
6月27日ごろより悪病(コレラか)流行る。
8月8日、9日、13日、14日/悪病退散のまじないをもらう、実行する。
14日/日記を書く(これが最後)
15日/未明1時ごろ、具合が悪くなるが吉之助、さちによって看病され朝まで眠る。
夕方、病状悪化。18時過ぎ、長女のさきがやってくる。
16日/みんなで看病。夜、重篤になる。非常に苦しがる。
17日/午前9時過ぎ家族などに見守られて永眠。
発症から臨終までが丸2日ほど。
命にかかわる持病がなく53才という若さなのに急逝。
病気の怖さを感じますね。
現代から考えると決して長いとは言えない人生ですが、
馬琴家に嫁ぎ、女性ながら日記を書き続け、
家族を守り続けた濃い人生だったと言えるでしょう。
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