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2014年7月23日 (水)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その9)路の最期

滝沢路(みち)の最期。

路は安政5年8月17日に53才で亡くなります。
原因は当時江戸で流行っていたコロリ(コレラ)だと思われます。
というのも8月8日の路の日記に、
・江戸の町で流行り病が起きていること
・その症状について、元気な人が下痢、お腹の張りなどに見舞われ、一日二日のうちに亡くなること
が書かれているからです。

路が具合が悪くなるのは8月15日の未明です。そしてみるみる悪化。
17日朝に亡くなってしまうのです。

路の日記最後の執筆は8月14日。亡くなるわずか三日前まで日記を書き続けた人生でした。

では安政5年8月8日以降の路の日記を抜粋でご紹介します。
青字は引用部分。
ただし書きはその2を。
(略)としているのはすべて私による略ですが、それ以外のところも、要所の部分抜粋です。

8月8日
(私メモ/西暦1858年9月14日。悪病が6月から流行っていること。その病を防ぐまじないが書かれています)
残暑。
此節流行病、壮健にてありし人、心地あしく覚候へば水瀉いたし、
其上腹内はり、大脳の上、一日か二日の内死去致候もの、
6月27日頃より赤坂辺多く候所、此節所々の多く損じ、一同おそれ用心候事。
右咒(まじない)、京都より参り候火にて出入りの敷居に灸事致候へば、右病難のがれ候由。
およし殿、右之火寺家村より持参の由。
直に吉之助足跡へ三ケ所つまさき・きびす・土ふまずへ袋艾(よもぎ)を致。
(略)
右まじないに門口へやつでの葉一まい・赤がみ一枚・杉の葉釣し候ば悪病のがれ候由にて、一同釣之。

6月末頃から赤坂あたりでこの悪病が流行っていることがわかります。
発症後一日二日で死に至る病。どんなに当時の人が恐れたことでしょう。
だからこそ藁もつかむ思いで、まじないにすがったのですね。
「京都より参り候火」と書かれています。
京都の火というと八坂神社の「をけら参り」を思い出しますが、
この「火」はどんなものだったのでしょう。

8月9日
此節悪病時行候に付、右防之咒也とて、てんぐ葉之八手壱枚・赤紙壱枚被贈之。
此ゆへに杉の葉・唐がらし三つ入、門口に釣置也。


流行り病のまじないとして、唐がらしが出てきますね。
江戸時代後期の錦絵「流行金時ころりを除る法」一秀斎芳勝画にも唐辛子は登場します。
唐辛子を病人の枕元でいぶすと治ったと描かれています。

内藤記念くすり博物館のサイト「くすりの博物館」(ttp://www.eisai.co.jp/museum/)
→人と薬のあゆみ→保健衛生→コレラでこの錦絵を見ることができます。

直接のURLはttp://search.eisai.co.jp/cgi-bin/historyphot.cgi?historyid=K00598

8月11日
冷気。

8月12日
冷気。

路は深光寺へ墓参りにでかけます。

8月13日
およし殿兄弟来る。時行病除候札也とて持参、認呉候様被申候に付、数枚したため進之、
小林氏・林氏へ人数ほど進之。其字
(私メモ/このあと書かれている文字はPCで再現不可)
此字枕の下へ布、明日川へ流し候由也。

8月14日
(私メモ/路が書く最後の日です。
寒い日が続いていること、7月上旬より送葬が多いこと、流行り病のまじないが書かれています)
冷気。昼後より残暑甚し。
此節時候甚あしく、朝綿入衣にても寒くおぼえ、昼後に至り候へば帷子にても尚暑し。
七月中旬より人々多損候事、此方門前すら一日五つ六つ位送葬を見候事也。
(略)
八時過およし殿来る。尚亦悪病除札持参。右之札如此「天得天玉延命」。

寒暖の差が激しいことがわかります。
今の暦で9月中旬。
涼しい日が続いたあと14日午後から残暑がぶりかえしたことがわかります。
そして
八時過(私メモ/8月の八つ時なので14時頃)およし殿来る。
尚亦悪病除札持参。右之札如此「天得天玉延命」。
が路の最期の日記の一文となりました。

このあと路ではなく、娘のさちが母の日記の続きを書きます。
路の最期の様子を綴っています。

十四日夜八つ時ころ(私メモ/夜中の1時過ぎなので実質15日)より母心ちあしく候由にて
私らおこし候間、早々おき出、手あて致候所、大きによろしく、朝迄ねむる。


8月15日
今朝母大きよく、朝いいかひに致、一わんすすめ、
ひる時ころ月見団子、吉之助・われら両人にて是をこしらへ、神仏へそなへ。
夕方より母事きうによふす相かはり、嘉七殿むかへにまいり、
一夜とまりくれ候由に候聞、右留。
八つ時ころはなはなよふす相成候に付、飯田町へ人つかはし、
姉まいり候由申候所、六つ時ころ姉参り、十六日壱日看病致候所、
十六日夜はなはなあしく候所、ま事にま事に苦痛はなはなしく、
龍土はは・姉・私かん病致候所、十七日四つ過、りうじ相かなはず死去致す。


「はなはな」は「甚だ(はなはだ)」のことでしょう。
毎年8月15日の月見行事を欠かさない滝沢家。
路の具合がよくないので吉之助とさちが月見団子をこしらえたことがわかります。
なお、15日の日記は後に書いているので17日の死去のことまで触れているのですね。

8月16日
今朝林内義、母方へおかい・かつおぶしじさん致、すすめ候所、
ちゃんに七分目程も是をすすめ候所、少々たべ候得供、
それきり少々もこくるいをたぶる事なし。
(略)

8月17日
早朝母事事の外よふすあしく候間、
姉・万平・吉之助・私まくらべに折、四つ時過死去致。
(略)

8月18日
今日くみ合一同参り、かはるがはるつや致。(略)

以上の日記から路の最期をまとめてみますと。

6月27日ごろより悪病(コレラか)流行る。
8月8日、9日、13日、14日/悪病退散のまじないをもらう、実行する。
14日/日記を書く(これが最後)
15日/未明1時ごろ、具合が悪くなるが吉之助、さちによって看病され朝まで眠る。
    夕方、病状悪化。18時過ぎ、長女のさきがやってくる。
16日/みんなで看病。夜、重篤になる。非常に苦しがる。
17日/午前9時過ぎ家族などに見守られて永眠。

発症から臨終までが丸2日ほど。
命にかかわる持病がなく53才という若さなのに急逝。
病気の怖さを感じますね。

現代から考えると決して長いとは言えない人生ですが、
馬琴家に嫁ぎ、女性ながら日記を書き続け、
家族を守り続けた濃い人生だったと言えるでしょう。

滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら
雪の結晶INDEX(全般)はこちら

2014年7月21日 (月)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その8)食べ物、黒船などの時事ほか

滝沢路の日記シリーズその8です。

路の日記は嘉永~安政の江戸の暮らしのさまざまなことがわかってとても興味深いです。
その8では食べ物、黒船などの時事ほか 私がおもしろいと思ったものを羅列でご紹介します。
青字は引用部分。ただし書きに関してはその2を。


【食べ物】  

回向院前あわ雪茶漬けや(嘉永5年6月1日) 
あわ雪茶漬けが名物の料理屋でしょうか。
あわ雪茶漬け、おいしそう。
泡立てた卵白を泡蕎麦の上にかけた「淡雪蕎麦」の茶漬けバージョンでしょうか。
それともトロロを雪に見立てたとか?

マルメロ(嘉永5年9月5日)
樹木のまるめろと申実持参、被贈之。右まるめろは花梨の類にて、長命の薬也と云う。
マルメロって今でもおしゃれな果実というイメージなのに江戸時代にすでに渡来していたんですね。

窓の月
菓子類でよく登場するのは窓の月。窓の月とは四角い最中(もなか)のようです。
鷹見泉石の日記、馬琴の日記にも頻繁に登場していました。

佐柄木町窓の月(嘉永2年6月12日)
佐柄木町は現在の神田須田町あたりのようです。

梅林亭窓の月(嘉永6年2月27日) 

雪月花窓の月(嘉永5年7月24日、嘉永7年6月28日)
この書き方だと雪月花が店舗名でしょうか。

むつの花一折(安政3年1月7日、1月18日、1月27日、2月15日、6月30日、7月5日) 
むつの花とは雪の結晶のこと。すでに天保時代に土井利位の雪花図説ブームが起きているので、
雪の結晶の形をした菓子だと思うのですがどんなものだったのでしょう。

船橋屋煉ようかん(嘉永2年8月24日)

越後名産ささあめ(嘉永7年3月1日)

 

【木村黙老(もくろう/木村亘わたる)との交流】

木村黙老は高松藩の家老を勤めた人物で、好事家。
滝沢馬琴が土井利位の『雪華図説』を知るきっかけになった人物です。
その流れは。
黙老が『雪華図説』を自著『聞きままの記』に転載→馬琴が黙老から『聞きままの記』を借りる
→雪花図を見て、馬琴が息子宗伯と一緒に模写する。 です。

馬琴が亡くなったあとも路も黙老と交流があったことがうかがえます。

ex. 高松木村亘より書状到来。(嘉永2年7月27日)

【馬琴のスタイルを踏襲】

馬琴は日記に毎年杜鵑(ほととぎす)の初鳴きの日を記しています。
ex. 昼時、杜鵑の初音をきく。小満前四日也。(天保3年4月19日)

それにならって路も杜鵑の初音を記しています。
今朝、ほととぎす初音を、両三声を聞く。立夏後十二日目也。(嘉永4年4月18日) 

そっくりの書き方ですよね。
きっと天国で馬琴は、路が日記を書き続け、初鳴きをチェックして、
馬琴の文体のように書くことをうれしがっていたのではと思います。

【地震】

安政の地震の生々しい記録は滝沢路の日記シリーズ(その3)をご覧ください。

【彗星】
嘉永6年7月21日(路の日記は旧暦。西暦で換算すると1853年6月16日)の日記に彗星がでてきます。

当月十日頃より西之方に箒星見え候由、人々風聞有之候に付、有夜見候所、
西永井様の方へあたり、右様之星あらはれ、忽に下り候事。但明方には東之方へ横に出候由。

この彗星はクリンカーヒューズ彗星のことですね。

長野市立博物館の「博物館だより2013.7.5 第86号」では
嘉永6年旧暦7月のクリンカーヒューズ彗星に関して
葦沢家日記、高野日記、岩崎家日記にも記録があることが紹介されています。
ttp://www.city.nagano.nagano.jp/museum/pdf/dayori86.pdf


【台風】

安政3年8月25日に江戸を襲った台風のすさまじさを路は記述しています。抜粋で。


安政3年8月25日。
終日霧雨。北風。夕七時過より折々大雨。或は止忽雨。

吉之助帰宅後、一同枕に就き候得ども、風烈しく、睡り候事不叶。
然る所四時過より大暴風雨戸障子を外し、住居舟の如く、且雷鳴も致。其ありさま凄じく候間、
両人の孫抱起し、幸次郎は自抱き、力三郎はおさち抱き、両人とも目をさまし、
一同金毘羅大権(現が脱字)の御神号をとなへ、実に恐しく、
昨年十月二日大地震
(私メモ/安政の大地震のこと)より一入恐れ居候事、生たる心地なく、
吉之助あちこちを防ぎ候内、玄関壁落、此方門・板塀庭通り仆(たお)れ、往来をふさげ、物置は潰れ候也。

四時過に成、伏見母屋仆れ潰れ、此方柘榴ならびに、柿・桜・梅、都て伏見後に有之候木は
是が為に仆
され、家の下に成る。
(略)幸と此方座敷は戸障子外れず、
諸神諸菩薩且先祖の御蔭にて仆れ潰るることなく、有がたきこと限なし。

ざっと訳しますと。
吉之助の帰宅後、一同床に就いたけれども、風が激しく寝付けなかった。
四時すぎから暴風雨が障子をはずし、住居は舟の如く揺れた。また雷もなった。
その様子はすさまじく
孫の幸次郎を私が、力次郎をさちが抱き起こした。
二人とも目をさました。
みんなで金毘羅大権現の名をとなえた。
安政2年10月2日の大地震より恐ろしく、生きた心地がしなかった。
吉之助はあちこちを防いでいたが、玄関の壁が落ちた。
門と板塀が倒れ、往来をふさいだ。物置がつぶれた。
伏見家の母屋が倒れてつぶれ、ざくろ、柿、桜、梅…
伏見家にあった樹木はすべて倒れ、家の下敷きになった。
幸い、我が家の座敷は戸庄司ははずれず、諸神菩薩やご先祖さまのおかげで
倒壊しなかった。
ありがたいことである。


安政の大地震を経験した翌年に関東地方を襲ったこの台風は被害も甚大。
いろんな記録が残されていますが、
路の日記の「住居が舟の如く」「生きたる心地なく」他
緊迫感の伝わる描写から台風の凄まじさが伝わってきます。

この台風は作物にも大きな被害を与え、野菜が高騰したことが以下の記述からわかります。

安政3年9月2日 大風烈後諸色高直に成、公儀より厳重の御触出、昨今職人ども多く召捕に成候由也。(略)
野菜物・塩肴等甚しく高直に成、是迄五、六文に売候もみ大こん、壱把壱十二文此方にて今日買取。

◇同年にこの台風被害の記録集『安政風聞集』金屯道人 編が出版されています。
ネットで閲覧/
早稲田大学古典籍データベースで3巻とも閲覧可能。「安政風聞集」はttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ni08/ni08_00996/index.html
国立公文書館の今月のアーカイブ『安政風聞集』ttp://www.archives.go.jp/owning/monthly/1008/archives5.html
ではこの本の概要をハイライト的な絵とともに紹介していてわかりやすいです。

【路の哀と怒】
路の日記には時々辛辣な表現があります。

まわりの人間とのトラブルで、00がこんな風に激怒したと書いているくだり、
また自分が立腹したことを書いているくだり。
かなり、ぴっしゃりと書き放っています。
馬琴も時々辛辣な表現を書いていましたが、路はまさるとも劣らない一面があります。


●哀
(太郎の喪失)

息子太郎が壮絶な闘病で嘉永2年10月に亡くなり、娘のさちと二人だけの暮らしになった
同年の12月最後の日記です。

今日、昼節一汁二菜・膾(なます)、母女二人祝食し、
夕方福茶、都て(すべて)先例之如く祝納む。
祝いながらも、母女二人外敢外に人なし。心苦しき事限なし。

夫宗伯も早くに亡くし、息子太郎にも先立たれ、娘のさち(太郎の妹)と二人だけというさみしさが伝わってきます。


●哀(おさととの別れ)
嘉永7年4月5日から村田氏の長女おさとが路の家で暮らします。
倉太郎のお守をお願いする意味もあったのだと思います。
そのおさとが一年後の安政二年4月本多家に行くことになります。
ゆかた、けしょう道具、下駄、帯などをもたせて遣るわけですが、
おさとがいなくなるさみしさをこうつづっています。

去寅の夏4月5日より此方へ参り、壱ケ年を馴染候ゆへ、遣し候事よろこばしからず、
且当人も名残をしく存候ゆへ、数行の涙。
一入一入ふびん弥増す。
さりとていむべきにあらず候間、涙ながらに出し遣し候也。
此故に今晩とかくに心に掛、不睡也。

「数行の涙」や「一入一入ふびん」におさとに対する愛情と別れのさみしさが感じられますが、
文章は短く簡潔で、路の筆の達者ぶりを感じます。

●怒(娘さちの最初の夫小太郎の暴言に対して)

言語道断、失敬無礼いわん方なし。(略)
くれぐれも憎むべき奴也。(嘉永3年9月13日)


●怒(小太郎に対して)

其心術の賤き事、言語道断、沙汰の限り也。笑ふべし。(嘉永3年12月18日)


●怒(さちに対して)

我まま多く、親を侮り、強情ばり、親の意に背候事かくの如し。憎むべき奴也。(嘉永4年6月22日)


●怒(路の悪口を言いつづけてきた隣人H氏の妻が贈物を持ってきたことに関して。

戌年以来絶交の所、今日の贈物いかなる心ぞや不分、ふしん也。(嘉永6年6月3日)


●怒(妻が亡くなり翌日に葬祭をすることを真夜中に門をたたいて知らせにきた知人とその使いに対して)


夜をこめ門をたたき人を驚し候事、甚しき愚也と思ふ也。 (嘉永7年5月22日)


●怒(植木の伐採のトラブル。O氏に対して)


誠に烏滸(おこ)のしれもの也。(略)非礼成申分也。笑ふべし。憎むべし。此のものの志習ふべからず。
(安政2年3月4日)

私メモ/「おこ」とはばかげていること。ふとどきなこと。「おこがましい」の「おこ」にあたります。


●怒(さちと二番目の夫、吉之助の夫婦喧嘩に関して)

*吉之助と云、おさちと云、おろかにも尚おろかなるべし。 (安政2年7月28日)

*吉之助近頃は癇症募り、我儘も同様。(略)
己怒りにまかすれば、未物さへいへぬ小児或は家内当り候事如何成心得に候や。(安政3年5月19日)


*安政5年6月22日の日記では吉之助関係の記述が1頁半にわたって続きます。

25才で妻も二人の子供もいる吉之助の経済感覚、怒りっぽい気性などを批判しています。

※吉之助を少し弁護すると、路の晩年は不仲が目立った吉之助とさちですが、うまく行っていた時ももちろんありました。
おさちがトイレ(現代とは違い汲み取り式のトイレです)に落としたかんざしを吉之助が救い出すということもありました。

一昨日おさち雪隠へ髪ざし落し候所、下へ落入候に付、すくひかね候所、
今夕吉之助糞を汲出し、髪ざしをすくひ出し候也。
(嘉永7年11月20日)


●怒(Y氏に対して)
実に実に呆れ候ほど愚人也。 (嘉永3年9月16日)

【咒(まじない)と薬】

医者が治せる病気が限られていたからこそ、救いをもとめてさまざまなおまじないが生まれたのでしょう。

●疱瘡のまじない→鶏卵を雨だれ落へ埋む。(嘉永7年12月17日)
●傷薬→
シャム油薬。(嘉永6年7月24日)
    吉之助がビワの木を割っている時にその枝で怪我をしてしまいます。

    その時にシャム油薬を塗ったことが記されています。
    シャム油薬ってどんなものでしょうか。


蜂刺され→三七草の汁を塗る。
     吉之助が蜂に刺された時、
         三七の葉やに、其外赤からの汁をもみ出し、是をつけ(嘉永7年閏7月12日)
         と書かれています。

         三七草(さんしちそう)の葉は毒虫に刺された傷に効くとされてきました。

【青山百人町の星灯籠】

歌川広重(2代目)が浮世絵『諸国名所百景』シリーズで描いた「東都青山百人町星燈篭 」。
路たちも見物を愉しんだことが記されています。

夜になって、榎本御母義(私メモ/さちの姑)・おさち同道、倉太郎携、百人町星灯籠見物に行。


星灯籠に関しては「青山外苑前ナビ」(ttp://www.aoyama-gaienmae.or.jp/)
→青山外苑前今むかし→郷土史資料で見る青山外苑前今むかしで紹介されています。

直接のURLはttp://www.aoyama-gaienmae.or.jp/history/h_04.html

 

【新宿の滝】

新宿駅近くに昔あったという十二社大滝(じゅうにそう おおたき)について路が書いていました。

今日より十二社滝へうたせ候由にて(嘉永6年7月2日)


十二社大滝に関しては新宿十二社熊野神社のHP(ttp://12so-kumanojinja.jp/)に詳しく書かれています。


【黒船来航】

嘉永6年6月3日、ペリーが黒船で浦賀沖に現れたことを路は7日の日記で書いています。

 

此節アメリカより船廿艘余浦賀迄参り候に付、魚船一向出不申候に付、肴一向無之、騒動也。 
(嘉永6年6月7日)

此度唐船浦賀へ参着凡二艘、乗喜船三艘参着、小舟内海へ見候に付(以下私による略)(同年6月9日) 

異国船当上旬より浦賀表へ着舟に付、大名衆夫々御固め被仰付候所、昨十三日帰国に付
(以下、私による略)(同年6月14日)

 

嘉永7年1月のペリー再来航のついても路は記しています。

 

唐船、浦賀表へ四、五艘渡来之由也。 (嘉永7年1月17日)

江戸時代の江戸の町での生活ぶりが細部にわたって知ることができる、路の日記は濃すぎて飽きることがありません。

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2014年7月20日 (日)

かみなりが凄かったでした

今日は天気予報通り。夜7時過ぎからものすごい雷爆撃となりました。

電気を消して部屋の中から見ていたのですが、まるで記者会見のフラッシュのよう。

10秒ぐらいずっと明るいままということもありました。
雷が近所の屋根や道路、街路樹すべてを明るく照らす閃光の威力。

近くにも何本も落ちたはずです。わずかな時間でしたが停電にもなりました。

テプコ雷情報で雷が遠のいているのを確認できている時も、
時折近くに光ってすぐの雷が着弾するので油断はできません。

空に一度に何本も稲妻が走るのを見ました。龍がうごめくSFX映画のようでした。

そして、生まれて初めて見たのが、雷の火の粉?
以下、その様子をうまく説明できないのですが。

南の空に垂直に目が眩むようなピンク色の太い稲妻が走った時のことです。
その稲妻がパッと消えるのではなくて、こなごなになるような形で光が消えたのです。

まるで花火の消え際のように。
打ちあがった花火が開いて落ちてくる時、その軌跡が線ではなく、
細かな点線のように降り注ぐことがありますよね。

あんな感じです。

稲妻の柱が3秒ぐらい空にとどまり、
3秒後ぐらいに稲妻の枝葉が実線(─)から点線(---)になるみたいにぶつぶつ途切れ、
それぞれが降ってくるような雰囲気でした。
降ってくるといっても、花火みたいに地上まで到達するわけではなく、
こなごなで降ったと思うほどなく消えてくのですが。

珍しい現象なのでしょうか。わりとある現象なのでしょうか。
私自身は稲妻が花火の火の粉のようになるのは初めてみたのでびっくりしました。

すさまじい雷に遇うことがあっても、昼間だったり、出先だったり。
夜、電気を消して眺めることがなかなかありません。
久しぶりに閃光の恐ろしくも神秘的な光を身をすくませながら眺めました。

そして、雷が去ったと、電気をつけて、あらためて人間の文明に感心しました。
闇を照らす雷以上の明るさをスイッチ一つでコントロールしてしまうのですから。

2014年7月10日 (木)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その12)「ひ」が「し」になる江戸っ子の証が。

滝沢路の日記(その7)のあと(その8)以降を飛ばして(その12)です。

ただし書きはその2を。

江戸っ子は「ひ」が言えなくて「し」になるといいますよね。
私も知り合いの江戸っ子が朝日新聞を「あさししんぶん」と発音するのを聞いた時、感動しました。
本当に「ひ」が「し」になるんだ!と。

さて、今、江戸時代の滝沢路(たきざわ・みち)という女性の日記を読みこんでいるわけですが、
そこにも面白い記述を見つけました。

路というのは滝沢馬琴(曲亭馬琴)の息子の妻。
路は馬琴の後を継ぐように、<滝沢家の記録>である日記を書きつつけているのですが、
それをまとめた『瀧澤路女日記』の下巻に

 



 

瀧澤路女日記 下巻

 

 

路の娘のさちが代筆をした記載もあります。
さちが記したのは路が晩年に体調をくずした時と、路がなくなった後です。

今回、あら!と思ったのはこの娘さちの記述なんです。
さちの文章はひらがなや誤字が多いです。
路に比べて文章を書くことにまだ慣れていないんだな、
とあらためて路の文筆の力を感じるのですが、
さちの書いた文章に頻繁に登場する言葉に「しる」があるのです。

しる時ころより伝馬町へかい物に行」「しる時過」「しる時ころ帰宅す」「しる前ふるまひ」などなど。

最初は、ん?と思いましたが、すぐに「昼(ひる)」のことだ!!と気づきました。
一か所だけ安政5年10月18日の日記に「ひる時ころより」と出てきますが、それ以外は全部「しる」です。

安政時代の江戸っ子が「ひ」が「し」になるのを目の当たりにできてとても興味深いです。

-----------------
ところで、私事ですが、私も「ひ」と「し」の混同があります。

実は7月7日を「しちがつなのか」と言えず「ひちがつなのか」。
子供の頃から「オオカミと七匹のこやぎ」は「おおかみとひちひきのこやぎ」。

でも文字で「ひち」と書くことはありません。
大人になってから、「ひち」と発音するのは間違いのようだと気づきましたが、長年の習慣は治りません。
「質屋」は「しちや」とちゃんと言えるので、物理的に「しち」が発音できないわけではないんですよね。

「し」が「ひ」になってしまうもう一つは「お布団を敷く」。
「敷(しき)布団」という単語があるわけだし、
「敷く」は「しく」だと頭でわかっていながら、「お布団をひく」と言ってしまいます。

なんで間違えちゃうんだろうと思っていたのですが、
最近になって、関西では「しち」を「ひち」と言うことを知りました
感激しました。
間違っていたわけではないんだ。私のルーツはこれだ!と。

姉に早速確かめてみると、私と一緒でした。
意識的に「しち」と言うようにしているけれど、無意識だと「ひち」になっちゃうとのこと。

母が関西出身のため、「母の影響だ、きっと」と二人で盛り上がり、母に確認すると、
「私はちゃんと教科書通りに発音しているわよ。ひちにならないわよ」と答えが返ってきました。

「でも発音してみて!」と母の「七月七日」の発音を確かめると、
「しち」ではなくてしっかり「ひち」になっていました
今月は7月なので、仕事で「7月」と発声する機会がすごく多いんですよね。

ひちは間違いではないと知ったわけですが、ひちは関西の方言という認識が広まっていませんよね。
関東で暮らしていることもあり、「ちがつ」と、「ひ」を小さな声にして発音するようにしています。
「ひちがつ」と発音していることをなるべく気づかれないように。

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emi

  • プラネタリウムでのヒーリング番組制作に携わった後、現在は 土井利位侯の「雪華図説」をライフワークとして調べ中の図書館LOVER。月に魅せられ、毎日、月撮り。月の満ち欠けカレンダー(グリーティングライフ社)のコラムも担当。              興味対象:江戸時代の雪月花、ガガーリン他。最近は、鳥にも興味を持ち始め、「花鳥風月」もテリトリーとなっています。   コンタクト:各記事のコメント欄をご利用くださいませ。コメントは私の承認後、ブログ内に反映される仕様にしています。公表を希望されない方はその旨をコメント内に明記くださいますようお願いいたします。
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