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2014年8月31日 (日)

一番復活してほしい江戸時代の行事「二十六夜待ち」(その2)広重

一番復活してほしい江戸時代の行事「二十六夜待ち」(その2)では、広重(初代、二代)の絵をご紹介します。

※ただし書き
「廿」は「二十」のことです。
所蔵館の作品がリンク切れになりましたら、各トップページから作品名で検索してみてください。

≪東都名所 高輪廿六夜待遊興之図≫歌川広重(初代)
1830~44年(天保年間)
神奈川県立歴史博物館、大英美術館ほか所蔵

閲覧できるサイト
日本財団図書館(ttp://nippon.zaidan.info/)
→芸術→諸芸・娯楽→成果物情報→海の総合学習テキスト
直接のURLはttps://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/013.htm

大英美術館所蔵のものはこちら

大英美術館所蔵(↓)の作品タイトルは
「Toto meisho Takanawa nijuroku ya machi yugyo no zu/
Amusements While Waiting for the Moon on the Night of the Twenty-sixth in Takanawa, a Famous Place in the Eastern Capital」
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本で閲覧
『江戸の料理と食生活』
『浮世絵に見る江戸の歳時記』
『浮世絵に見る日本の二十四節気』ほか

私メモ/二十六夜を描いた浮世絵で一番知られているのがこの作品だと思います。
当時の流行り物がわかってとても興味深いです。
深夜の月待ちのために、たくさんの屋台が並んだ様子がわかります。
売られていたものは白玉シロップ、焼いか、てんぷら、串団子、お汁粉、寿司など。
中央の絵には打ちあがった花火が描かれていますよね。
左の絵の下にタコのキグルミを着た人が。
ドンチャン楽しんでいる様子が伝わってくる作品です。

≪新撰江戸名所 高輪廿六夜の図≫
歌川広重(初代)

1840年(天保11年)

メトロポリタン美術館、ボストン美術館ほか所蔵

閲覧できるサイト
メトロポリタン美術館のものはこちら↓
作品タイトルは「Takanawa Ni-ju-roku Ya」
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ボストン美術館のものはこちら
作品タイトルは「
Moon Viewing at Takanawa on the Night of the Twenty-sixth (Takanawa Nijûrokuya no zu), from the series Famous Places in Edo, Newly Selected (Shinsen Edo meisho)」


私メモ/屋台が並んでいます。海側に桟敷のようなものが作られています。
「見番」の看板も。カゴも行きかっています。串団子のようなものを食べ歩きしている人や、三味線などの楽器を持って歩いている人も。
楼閣のある店から女性が海の方を眺めています。

≪東都名所の内 高輪廿六夜之図≫歌川広重(初代)
1840~42年(天保11~13年)


平木浮世絵財団、ボストン美術館、ホノルル美術館ほか所蔵

閲覧できるサイト
ホノルル美術館所蔵のものはこちら↓
作品タイトルは「Takanawa on the Night of the Twenty-sixth」
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ボストン美術館所蔵のものはこちら
作品タイトルは「Moon Viewing at Takanawa on the Night of the Twenty-sixth (Takanawa Nijûrokuya no zu), from the series Famous Places in the Eastern Capital (Tôto meisho no uchi) 」

私メモ/海に向かって敷いたゴザでくつろいでいる人がいます。カゴも行きかい、多くの人が出歩いている様子がわかります。
空にはいくつもの星が描かれています。

≪江戸名所年中行事 高輪廿六夜≫歌川広重(初代)
1840~42年(天保11~13年)


東京国立博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館ほか所蔵

閲覧できるサイト
V&A博物館のものはこちら
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作品タイトルは「The Twenty-sixth Night at Takanawa; Annual Events at Famous Places in Edo」


私メモ/団扇絵です。
三味線、鼓、舞etc. 海の眺望がすばらしい座敷での月待ち宴の様子がうかがえます。

≪江戸名所 高輪廿六夜≫
歌川広重(初代)

1841年(天保12年)


江戸東京博物館、ボストン美術館、ホノルル美術館ほか所蔵

閲覧できるサイト
江戸東京博物館のものはこちら

ホノルル美術館のものはこちら↓
作品タイトルは「Waiting for the Moon on the Twenty-six Night in Takanawa」
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ボストン美術館のものはこちら
作品タイトルは「Moon Viewing at Takanawa on the Night of the Twenty-sixth (Takanawa Nijûrokuya), from the series Famous Places in Edo (Edo meisho)」


私メモ/絵の中の川柳は「稲妻によってからしてまはる舟」(cf.尾道大学附属図書館下垣内文庫目録)。

右側にある店は「有吉」。
「すし」の看板も見えます。

≪絵本江戸土産 第2編≫
松亭金水(十返舎一九のこと)題、
歌川広重(初代・二代)画

1850年(嘉永3年)

江戸東京博物館ほか所蔵。

閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション

↓国立国会図書館デジタルコレクションより
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369307/22

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私メモ/高輪の項で「同所 廿六夜待ち」のタイトルで二十六夜待ちの風景が描かれています。

≪東海道張交図会 
五十三次張交 
壱 日本橋・品川・川崎・神奈川より 八ツ山≫歌川広重(初代)

1852年(嘉永5年)

川崎区立中原図書館所蔵


閲覧できるサイト
川崎市HP内「浮世絵に描かれた川崎」(ttp://www.library.city.kawasaki.jp/webgarary/ukiyoe.html)
→地場産業→NO.1

直接のURLは(ttp://www.library.city.kawasaki.jp/webgarary/u00034.html)

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↑図録「生誕二〇〇年記念 広重展」より

私メモ/左下の絵「八ツ山夜景 品川」が二十六夜待ちモチーフとなっています。
図録「生誕二〇〇年記念 広重展 フランク・ロイド・ライトが発掘した知られざる名品」(ブンユー社 1996)の解説が興味深いです。
八ツ山は高輪と品川の間の小丘。六夜とは二十六夜で、七月二十六日の夜、高輪に月の出を拝みに行くと出かけ品川遊郭に繰り込む客が多かった。版元泉市の店は芝にあり、その提灯を持った女が品川へ向かうのは、旦那を迎えに行くところと解釈できなくもない。(P135)

やはり深夜の行事にかこつけて遊興にいそしむ人が多かったのですね。

≪東都名所年中行事
七月 高輪廿六夜≫歌川広重(初代)

1854年(安政元年)

江戸東京博物館所蔵

閲覧できるサイト 

港区のデータベース→浮世絵散歩→高輪の月見

直接のURLは(ttp://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/ukiyoe-zoom.cgi?id=21&num=photo3)   
私メモ/見晴のいい高台の座敷でしょうか。今でいうテラス席で女性二人が月待ちをしています。
朝顔の柄のうちわも涼しげです。

≪狂歌江都名所図会≫天明老人内匠編 歌川広重(立斎広重)画
1856年(安政3年)

閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369327/6
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↑国立国会図書館デジタルコレクションより

私メモ/一番右の扇子を持っている男性の上に廿六夜の文字があります。

≪江戸名所四十八景 
九段坂 廿六夜待ちの図≫
歌川広重(二代)

1860~61年(万延元年~文久元年)

早稲田大学、ボストン美術館、ミネアポリス美術館ほか所蔵

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閲覧できるサイト
ミネアポリス美術館のものはこちら↑
作品タイトルは「No.4 Kudan」

ボストン美術館所蔵のものはこちら

作品タイトルは「No. 4, Kudanzaka: The Moon-awaiting Festival on the Night of the Twenty-sixth(Kudanzaka, Nijûrokuya machi no zu), from the series Forty-Eight Famous Views of Edo (Edo meisho yonjûhakkei)」

私メモ/九段坂も二十六夜の月待ちのスポットでした。九段坂がいかに高台であるかがよくわかる絵です。月待ちの出店が賑わっています。花火も打ちあがっています。
二十六夜を当時の人は楽しんだのですね。

≪江戸自慢三十六興  高輪廿六夜≫
歌川豊国(三代)、歌川広重(二代)

1864年(元治元年)

閲覧できるサイト

国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305724/1

解説ページは同サイト内
「高輪 錦絵でたのしむ江戸の名所」ttp://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/takanawa/

↓国立国会図書館デジタルコレクションより
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私メモ/海にいくつもの舟が浮かんでいます。
波も描かれていて清涼感のある絵です。

二十六夜待ちシリーズ その1 その2 その3 その4

2014年8月30日 (土)

一番復活してほしい江戸時代の行事「二十六夜待ち」(その1)

日本で月見というと旧暦8月15日の十五夜、旧暦9月13日の十三夜の月を眺めるのが2大行事ですが、
それ以外の月齢の月を拝む「月待ち行事」がありました。

とりわけ「二十六夜待ち」は江戸時代、人気行事となっていました。

これは旧暦二十六日の細い逆三日月を拝むものです。
満月は夕方東の空から昇りますよね。月の出は毎日約50分ずつ遅れていきます。
ですので、二十六夜の月が東の空から昇ってくるのは夜更けまで待たなければなりません。
「月待ち」の名の通り、この遅い月の出を待つこと自体が当時の人たちの楽しみだったのです。

※月の出は季節によっても時間が変わります。
2014年東京の場合を挙げてみましょう。
2月25日(旧暦1月26日)の夜(厳密には日付変わって2月26日)の月の出は3:25。
8月21日(旧暦7月26日)の夜(厳密には日付変わって8月22日)の月の出が1:59。


江戸時代の浮世絵や年中行事の文献を見ていると
特に旧暦7月26日におこなわれた二十六夜待ちが盛大だったことがわかります。

二十六夜の月は昇る時に阿弥陀、観音、勢至の三尊が現れる。
その三尊を拝むとご利益があると信じられていたようです。

この三尊が現れるというのはいくつか説があります。

1)
Uの字型に昇る逆三日月型なので月の左端の角と右端の角と真ん中。
三か所から光が放射されるように見えた。

2)
地平線、水平線間際の細い月が錯覚で三体あるように見えた。

3)
照らされた部分がU字型になる月が昇る時、
最初に顔を出すのはの形ではなく、照らされていない影の面。
半月などの場合は照らされた面が明るすぎて影の面が見えないけれど、
月齢26ぐらいの月だと地球照によってその影の部分の模様がぼんやり見える。
その模様が三尊に見えた。

真偽はおいておいて、こんな説が言い伝えられていることが興味深いです。

いずれにしても、
二十六夜は、真剣にご利益を願う人もいれば、
かこつけて、夜更けまで飲んで歌え、踊れのどんちゃん騒ぎを楽しんだ人も多かったのです。
イベント好きの現代人とかわりませんね。

旧暦7月26日は現代の暦の8月下旬から9月中旬にあたります(年によって変わります)。

暑さも一段落して、夜更けは過ごしやすくなる頃。
また、夏至の頃より日の出が遅くなっていることから、
夜明けの空に残る二十六夜の月を眺めやすくなる頃。
ちょうどいいタイミングの行事だったのですね。

今年の場合ですと。
旧暦7月26日が8月21日。
国立天文台 天文情報センター 暦計算室 の東京のデータをみてみましょう。

2014年8月22日(金)
東京。
月の出 1:59 日の出 5:05
21日から日付変わって22日のこの月の出が二十六夜待ちとなります。

月の出は1:59ですが、私のところは東側がひらけていないので、この月の姿を見られたのは4時頃でした。
東南東の空にこんな形で見えました。
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2014年8月22日4:20の月です

江戸時代の人たちも同じだったのでしょう。
東側がひらけた場所で月待ちをしていたら、深夜の間に二十六夜の月を拝めたでしょう。

でも、そうでなかったら、月がある程度の高さに昇るまで、さらに待つことに。

二十六夜待ちでハメをはずし朝帰りして長屋戻った亭主。
おかみさんに怒られて、
「俺たちが待ってた場所は東に邪魔なものがあって、
月が高く昇るのを待っていたら朝になっただけだ~」
なんて言い訳した人もいたんでしょうね。




江戸時代は品川・高輪あたりがいわゆるベイエリアで、絶好の二十六夜スポットでした。

ほかには、深川須崎、湯島天満宮境内、九段坂上、日暮里諏訪神社、芝浦、築地の海岸、目白不動尊境内なども人気だったようです。

二十六夜待ちシリーズ その1 その2 その3 その4

2014年8月28日 (木)

涙腺決壊、水野敬也×鉄拳の『それでも僕は夢を見る』


泣かせる本に出会いました。
それは水野敬也著、鉄拳画の『それでも僕は夢を見る』。
それでも僕は夢を見る

 




鉄拳のパラパラ漫画大好きです。
6月に行った「医は仁術」(国立科学博物館)では場内で上映されていた鉄拳のパラパラ漫画にも泣かされたばかり。

さて、『それでも僕は夢を見る』
の水野さんといえば、『夢を叶えるゾウ』でおなじみですね。
この本は、夢をあきらめてはいけない、がんばれ系のメッセージを放つ、感動させるための本。

そう思うと、少しすれた大人は、
「あざとい」までいかなくても「狙い」を感じて、泣かされてたまるかと思うのでありますが・・・

泣かされちゃいました

ちなみに私のまわりの大人4人は涙が出なかったとのこと。
「全米が泣いた」ではなく、大人の5人に1人は泣く、ぐらいかもしれません。
鉄拳ファンの方、ドライアイの方、あたたかい気持ちになりたい方、ぜひ読んでみてくださいね。

以下、ネタバレになりますので、淡い色の文字にします。
ネタバレOKという方のみご覧ください。
PCでご覧になっている方はピンク色の文字部分をドラッグしていただくと、青字に反転。
見やすくなるかと思います。

「ユメ」と夢をかなえられないでいる「若者」の話かと詠みはじめたところすぐに、
「若者」が老人になってしまってびっくり。
老いた「若者」は病床に伏します。
次のページをめくると。

ベットの脇に⌒の形のものが。そこに「ユメ」という文字が読み取れます。
つまり「ユメ」の頭が見えているのです。
このページで、やばい!と思いました。

若者が夢を忘れて老いても、「ユメ」はいつもそばにいてくれたということですよね。

そして次のページで、涙腺ダム、決壊!
ベッドの下から顔を出す「ユメ」。その「ユメ」も老人になっていたのです。

こころなしか、サッカー日本代表チームを率いたザックさんに似ています。

このあとは最後まで私は涙放流がとまりませんでした。

お互い、年とっても性格がかわらないと主人公とユメが笑いあう様子もいいですね。
最後に語られるメッセージにも心をぐっとつかまれました。

2014年8月25日 (月)

INDEX カテゴリー 月

カテゴリー〔月〕のINDEXです。         作成日2014.8.25

※INDEXをどう整理したらいいか検討中で更新できていません。

続きを読む "INDEX カテゴリー 月" »

2014年8月24日 (日)

2014年8月23日多摩川花火大会に行きました

昨日、多摩川の花火大会を観に行きました。

この花火大会は「世田谷区たまがわ花火大会」「川崎市制記念多摩川花火大会」2つの合同開催です。

二子玉川駅を基準にするとやや上流の世田谷側で打ち上げられるのが世田谷区たまがわ花火大会。

少し下流の川崎側で打ち上げられるのが、川崎市制記念 多摩川花火大会。


二子玉川駅が混むことはわかっていたので、早めに駅について小腹をみたしました。

土手に近い道は混むと予測。かなり大回りして吉沢口を目指します。

近いところはもういっぱいだろうと宇奈根で見るつもりでいたのですが、
まだ敷物を余裕で敷けるすきまがあって、かぶりつきのエリアで見ることができました。
マップで見ると、4Bブロックの左側の黄緑色の場所。
開始1時間ちょっと前に座れたことがびっくりでした。

黒い矢印のあたりです。
田園都市線の事故で足止めになってしまった人がいる影響があったのかもしれません。

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開始前。富士山が綺麗に見えました。
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打ちあがって開いた時のドンという音だけではなく、
打ちあがる時のシュボシュボという音の迫力が凄かったでした。
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昇った火種が開いて広がる時の3D感も圧巻。
球体ですから夜空の左右に広がるのと同じ距離の分、手前にも広がっているわけですよね。
大きな花火がグワンと広がる時、目の前すぐ近くまで迫ってくる様子に圧倒されました。
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一番興奮したのは「夢」~世田谷の空に希望の華を~

前方に光の噴水カーテンが噴きあがります。
赤、ピンク、黄色、緑・・・カラフルな色が美しかったです。
そのカーテンの上に大きくこれでもかと重ねて花火が広がりました。

手ぶれました↓
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「東北の息吹 復興の花」は音楽もしっとりとしていてジ~ン、うるってきました。

打ちあがる時、確か3段階ぐらいでパ、パ、パと花が咲き、
そしてぽんと大きな花が広がったと思うと、小割のように小さな花が周囲で咲く。

花火を連射で重ねて魅せるのとは真逆。
少ない音、花が咲いたあとの闇の余白。そぎ落とされた洗練美を感じました。

「世田谷ナイトフィーバー」のミラーボールは初めてみる花火でした。

球体を上半球、下半球、外側、内側の4分割とすると、
まず下半球内側が点滅→上半球内側が点滅→下半球外側が点滅→上半球外側が点滅と4段階で光る花火。

とてもおしゃれ。今後もこの花火たくさんみたいです。

火種がシュルシュルと昇る間にも工夫があるものが。

これは昇る途中で次々色が咲いていくもの。
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デジカメで撮ったら、スカイフィッシュみたいになっちゃいました。
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フィナーレも光の噴水のよう。
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いろんな形が現れる「型物」は川崎側の方がたくさんあったような気がします。
星、猫、にこちゃんetc.。

世田谷側の型物は意表をつく「世」「田」「谷」とどでかい「スマイル」とアフロヘアの男の子でしょうか。


花火が終わったあと吉沢口ですぐ向かったのですが、混みました。

吉沢橋を過ぎた交差点のところに辿りついたのが20時30分頃。
そこからは誘導に随って用賀駅を目指しました。
用賀駅着が21時。多くの人が用賀駅を目指しますし、
迷う曲がり角には必ず係りの人がいらっしゃるので迷うことはありません。

静嘉堂文庫そばを通るこのルート、おススメですが旧小坂家住宅付近では石段を登るところがあります。

イッツコムでは花火中継を放映。
録画を後でみてびっくり。世田谷花火と川崎花火をそれぞれ別チャンネルで放映してのですね。
録画していたのは川崎の花火の方で、残念ながら世田谷の花火の録画はしそこなっていました。

そこで川崎の花火中継を視ることに。
花火が始まったら一切のスタジオの音声はなく、
ひたすら現地の花火を見せ続ける太っ腹な放映がありがたいですね。

川崎の型物花火のクオリティ高いです。
テレビ画面をパシャリ。

にこちゃんと
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ハート。
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野球ボールに見えます。
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闇に浮かぶ☆がとってもファンタジック。
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下の青い丸い光の粒粒も美しいです。
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(2014.8.31追記)

ありがたいことに多摩川花火大会(世田谷側)の再放送があり、視ることができました!
対岸からのカメラで映した映像は水面に光が映るのが風情ありますね。

気に入ったミラーボールをもう一度見ることができてうれしかったです。

大きく一輪の花が咲き、その後小割りがまわりに咲く様子は満開の桜のようでした。

2000年の屋久杉の大きな木の根元に若芽がいっぱいあるような。
大きな花火が消えたあとに小さな花火がいっぱいというのは生命のバトンタッチのよう。

今回の花火大会で少し残念だったのは、青い花火が少なかったこと。
闇に青一色って美しいですし、赤×青。金×青。緑×青。
も綺麗なのに、赤系緑系が多かったでした。

最後のスターマイン、圧巻です。
青系の花火が少なかっただけに、
この場面で、ブルー、ピンク、などの色がみられたのが、とても印象に残りました。

2014年8月23日 (土)

新しいデジカメで月を撮りました!

デジカメが壊れてからずっとこのブログの画像はガラケーでアップしていました。
手元のガラケーがものすごく優秀で、特に雪の結晶撮影では、左手で雪眼鏡を持つため、
片手で撮る操作ができてミクロ接写ができる機能にしびれっぱなしでした。

でも、月を撮りたいなあと思い、デジカメを買うことにしました。
一眼ではないけれど、月のクレーターも写せる、
三脚がなくても手持ちでもブレを感じさせないというデジカメを。

初めて撮ったのは二十六夜待ちの月。
(旧暦7月26日の月/正確には旧暦27日になってからの月)。
20140822_0420moon1

買ったばっかりでこまかい説明書読みこめないまま撮った月です。
はっきりではありませんが、照らされていない月の暗い部分もみえます。

こちらはぶれてしまった月。月のお皿が2枚~。
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私は眼鏡をかけてもあまり矯正視力が強くないので、
 実は私の眼が見ているのに近いのはこの写真です。

2014年8月17日 (日)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その13)お墓を訪ねてみました

今日8月17日は、滝沢馬琴(曲亭馬琴)の息子の嫁であるお路さん(おみちさん)の命日。


深光寺(じんこうじ)(文京区小日向4-9-5)に行ってきました。

茗荷谷(みょうがだに)駅から歩いて3~4分。
茗荷坂沿いにあります。
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住宅街の一角ですが緑が鬱蒼としています。
20140817takizawamichi2

滝沢馬琴(曲亭馬琴)のお墓があることを示す碑がありました。
20140817takizawamichi3_2

目立つところ、AKBのセンターのような位置に、馬琴の墓があります。
(写真を撮り忘れてしまいました)。
馬琴の墓碑には法名「著作堂隠誉蓑笠居士」。

馬琴の墓に向かって立つと、路の墓は左手奥にあります。

路の墓を示す看板もありました。
馬琴に貢献していた路の墓を訪ねてくる方も少なくないという証でしょう。

20140817takizawamichi4
こちらが路の眠る墓。
一番上に
墓氏澤瀧
と記されていますね。

路は一番左。
路の法名である
操誉順節路霜大姉
(そうよじゅんせつろそうだいし)」
が刻まれています。

右隣は路の夫で馬琴の息子である
宗伯の法名「~琴嶺居士」の文字が見えます。

路と宗伯の長男である
太郎(法名、~琴靍居士)の名は
右隣のお墓にありました。
20140817takizawamichi7

路が亡くなったのが安政5年8月17日なので、
安政五 午年 八月十七日と記されています。
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深光寺は路も馬琴や夫宗伯他の墓参りなどで何度も訪ねているので、日記も何度も登場するお寺です。

路もここに何度もお参りにきたんだ~と思うと、故人に少し触れたような気持ちになりました。

お墓の周りは住宅が取り囲んでいるのに、緑が豊かで蚊がいっぱい。
蚊に襲われながら、路の孫である「橘(きつ)」の子孫である滝沢氏のお墓もみつけましたが、
早々に引き揚げたので、路の娘婿である吉之助(さちと離婚後も滝沢姓を名乗った)と、
路の孫の倉太郎(手を焼いた孫。10歳で早逝)の名前はみつけられませんでした。

路の墓には榊でしょうか、が供えられていました。
東京ですとお盆は7月かと思うのです。
路の日記を読んでも7月に迎え火など盆行事をおこなっています。
ご子孫の方々が8月のこのお盆の時期にお墓参りをされたのでしょうか。
それともどなたかが命日の今日にお供えされたのでしょうか。

滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら
雪の結晶INDEX(全般)はこちら

2014年8月15日 (金)

加賀前田侯の氷献上他、雪で涼をとることもあった江戸時代の江戸の町の人たち

連日暑い日が続いていますね。

でも、現代の私たちは、クーラーのあるところに逃げ込めます。
冷蔵庫を開ければ冷たい飲み物が、冷凍庫を開ければ、アイスクリームや氷があってかき氷も楽しめます。
涼をとる方法がいっぱいあります。

ですが江戸時代の人たち(もちろん江戸時代以外も)は大変でしたよね。
エアコンも冷蔵庫もない。

でも江戸時代の江戸の町の人たちも夏に「氷」や「雪」で涼を取ることもあったのです。
ごく一部の人、また庶民にとってはごくまれな時に限られるかもしれませんが。
加賀の前田候は旧暦の6月1日に将軍家に氷の献上をおこなっていたようです。

このことは、
江戸の正月から12月までの歳事記を綴った『東都歳事記』斉藤月岑(げっしん)著の6月の項に書かれています。
※以下、引用部分は青文字。

 

ネットで閲覧/早稲田古典籍総合データベース
(ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/)で閲覧可能。
トップページ→東都歳事記で検索
→請求記号:ヲ06_03375のNo.3のHTML →No.14


リンク切れになるかもしれませんが直接のURLはttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_03375/wo06_03375_0003/wo06_03375_0003.html
のNo.14

本で閲覧/『東都歳時記 2』斉藤月岑著 朝倉治彦校注(平凡社 東洋文庫 1971)

東都歳事記 (2) (東洋文庫 (177))

六月の朔日(ついたち)の項にこう記されています。

氷室御祝儀(賜氷の節) 
加州侯御藩邸に氷室ありて今日氷献上あり。
町屋にても、旧年寒水を以て製したる餅を食して、これに比らふ。
 

 

冷凍庫がない江戸時代でも、加賀からはるばる江戸へ雪を運んだり、氷室をつくって保存することが可能だったのですね。

氷献上(氷といっても雪ですが)について詳しいのは下記の2つです。

 


中島満氏による「お氷さまと富士参り」
(ttp://www.manabook.jp/nhk-koorinohanasi.html)

竹井巌氏による論文『金沢「氷室」考』
ネットで閲覧/金沢「氷室」考で検索
本で閲覧/北陸大学紀要 2010年 第34号

両資料ともとても興味深く、
この氷の献上について触れている文献を紹介されていますが、
氷献上についての文献が少ないことを語っていらっしゃいます。


ところで、旧暦の6月1日といえば今年2014年の暦だと6月27日にあたります。
それなのに、なぜ私が今日この記事をアップしたのか。

それは、江戸のことを書いている本をなにげなく手に取ったところ、
氷献上の様子がわかるあらたな資料をみつけたからです。

 

『江戸東京実見画録』長谷川渓石画(岩波書店 2014)

江戸東京実見画録 (岩波文庫)

江戸時代に生まれ、歌川国芳の弟子でもあった渓石が
幕末~明治に体験したあれこれを
絵と文で記した本です。
進士 慶幹氏、花咲 一男氏による
翻刻と解説があるのでわかりやすいです。

20140815yukikubari
p126~に「暑中の雪くばり」なるものが出てきます。


暑中の雪くばりは、売物に非ずして、松平加賀守より献上、
其他に出せしものの分配を受けるものなれば、
夫(それ)からそれへの分配にて、
是を持歩く者は、雪を抱て汗をかく始末なり。
此雪は前田侯の下屋敷にて、毎年かこい置といふ。


以下解説

本郷の赤門で有名な加賀前田侯から、
六月一日(陰暦)に将軍家に氷献上が行われる。
封地の金沢からとりよせた雪を、
本郷の氷室(板橋の下屋敷とも云う)に貯蔵していたもので、
将軍、幕閣の要人には大きな塊が行きわたるが、
中以下の人々には、ほんのおしるし程度のものしか行き渡らないが、
暑気払いのおまじないとして貴重品扱いにされたと云う。
「唐人の肝をば夏の雪でけし」と云う句があるから、
石町の外人宿、長崎屋の紅毛人にも贈ったものらしい。

前田家以外、駿河の富士山の氷も献上された。
「富士さんをぶつかいて来る御献上」とか、
「まてしばし無いは駿河の御献上」などと詠まれている。
オガ屑や藁で熱気を防いで運ぶが、
暑い最中だから「氷室荷解けば半分は水」「
御献上来る内三分の一になり」であるわけである。
この富士山の氷は、八丁堀の同心衆にまで行きわたったと云う。


どんどん解けてしまうにしても
冬にしかみられない白い雪のかたまりを夏に見ることができる。
貴重品でおまじない扱いされたというのもわかりますね。

画像は『江戸東京実見画録』(岩波文庫)より
「暑中の雪くばり」


雪が盛られている様子が描かれていますね。溶けないように走っているのでしょう。

 

さて、もう一つ、興味深い浮世絵を発見しました。

歌川国芳の「逢身八懐 湯しま暮雪」(個人蔵)です。

 

女性が桃がいっぱい盛った器を手にしているのですが、
その桃の上に白くうずたかく雪が積もっているのです。
背景には赤門でおなじみの前田侯の屋敷らしきものも描かれています。
女性の着物の柄は朝顔。
また手にした器の柄もブルーウイロー系の山水画で
「涼」が伝わってくる魅力的な絵です。

本で閲覧/
『浮世絵で見る江戸の食卓』林綾野著(美術出版社 2014)
浮世絵に見る 江戸の食卓


ネットで閲覧/主なところを2つご紹介
●長崎歴文化博物館での「歌川国芳展」のプレスリリースttp://www.nmhc.jp/pressrelease/pdf/2013/0627no17.pdf
●ARTS FIELD TOKYO(ttp://artsfield.jp/)
→講師リスト→林綾野
直接のURLはttp://artsfield.jp/professor/000209.html

「逢身八懐 湯しま暮雪」は
ダイナミックに盛られた雪に思わずゴクリとなる、
本当に魅力的な絵なのでぜひご覧になってみてくださいね。

 

江戸の庶民たちには簡単に雪も氷もまわらなかったのでしょう。
ですが、上記の『東都歳事記』に
旧年寒水を以て製したる餅を食し」とあるように食で楽しむ工夫がありました。

また、日本人ならではの感覚だと思うのですが、
土井利位が『雪華図説』を天保時代に発表してからは、雪の結晶柄の浴衣も流行りました。

というわけで、

「雪」や「氷」を触れる。食べる。着る。で江戸の人たちは涼をとっていたのです。

海外で雪の結晶といえばクリスマス時期のオーナメントやセーターの柄に使うなど、「冬」に使うのが当たり前。
<涼のために雪の結晶を夏に使う>。
当時の人たちのこの発想は現代の私たちよりぶっ飛んでいますね。

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2014年8月13日 (水)

リバティの2014秋冬追加柄、タイニー・ミランダを発見

どきどきしました。

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雪輪の魅力についてシリーズ番外編/美しい雪持蘭模様の小袖

2014年1月11日の雪輪の魅力について(その2)雪輪があしらわれた装束(着物)の補足です。

土井利位侯の「雪華図説」に魅せられたことから、
「日本人にとっての雪の結晶」を科学的なこと、文学的なこと、アート的なこと、他角度から調べています。

その一環で、着物、帯などの装束にあわられる雪模様を追ってきました。

土井利位が雪華図説を発表する以前の雪のデザインというと、「雪輪」「雪持ち」が主流。

その雪持ちモチーフの小袖でとても美しいものをみつけました。
(雪持ちというのは植物に雪がかぶった様を描いたもので、
直線的-----ではなく∩∩∩というように丸みを帯びた白い雪の輪郭が
リズミカルなアクセントとなっているデザインです)

国立歴史民俗博物館所蔵の「雪持蘭模様小袖」(江戸中期)です。
濃い赤地に白が映えます。色合いは少ないのですが、雪持ち蘭の配置が絶妙。
蘭といっても花を大きく描くのではなくて、茎の柔らかなカーブがモチーフ。
白い雪が積ったいくつもの茎が、まるで新体操のリボンのように、ひゅるんひゅるんと飛び交っています。
非常に完成されたデザインだと思います。

イギリスのウイリアム・モリス(天保5年生まれ)のテキスタイル、美しいですよね。
21世紀の今も壁紙、洋服の生地としてその柄が使われていますが、
この雪持ち蘭も同じくらい普遍的な美しさ、完成度を感じます。

リバティがこの雪持蘭をモチーフにしたファブリックを発表してくれたらいいのに!
リバティ 小袖フューチャーシリーズがあったらいいのに!と思います。

「雪持蘭模様小袖」は歴博のサイトで閲覧可能。

国立歴史民俗博物館(ttps://www.rekihaku.ac.jp/)→展示→企画展示→これまでの企画展示→
1999年度展示 江戸モード大図鑑

リンク切れになるかもしれませんが直接のURLは
ttps://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/991005/index.htmlです。

同ページにある「蝙蝠(こうもり)模様小袖」も必見。
パンクすぎます!

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2014年8月 6日 (水)

NHKの『目玉焼の黄身いつつぶす』にしびれました

予告編を見た時から、絶対、ツボだと思った番組。
うっかり忘れていて途中からだったのですが、面白い~。

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雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その11)路を題材にした作品

江戸時代の市井の女性ではあるけれど、口述筆記などで晩年の馬琴を助け、
不朽の名作「南総里見八犬伝」が未完とならずに世に出るサポートをした滝沢路(みち)。

馬琴のあとを継いで書き続けた日記で私を魅了した路。
ではありますが、世間的にはほとんど知られていません。
でも、路を題材にした本もあります。
3 冊ご紹介します。

(1)『江戸の明け暮れ』森田誠吾著(新潮社 1992)
江戸の明け暮れ

ブックデータベースより。
眼疾を負いながらも、名作『南総里見八犬伝』を著した曲亭馬琴。
その完成のかげに、眼となり、手となって、支えた息子の嫁・路女がいた。
馬琴の家を通して描く江戸の暮らし、江戸事情。

森田氏が路に興味を持ったきっかけは、馬琴の日記の記述のようです。
文政11年11月6日に嫁いできて日の浅い路が
金二分を夫に用立ててもらいながらその使い道を明かさなかったことが記載されています。

お路のこと 金子入用のむね 宗伯へ申すにつき 同人より金二分 これを遣わす
右につき 予 子細 相糺(ただ)し候えども 分明ならず
この度の義は格別 以来 右ようの事これあり候わば
紀国橋 里へかけ合いに及ぶべきむね きびしくいましめおく


森田氏はこの二分の使い道が明かされていないかと馬琴や路の日記を探ります。
その過程で、馬琴家族のさまざまなことを読み解いています。
(宗伯と路の夫婦のぎくしゃく。下女の入れ替わりの激しさから、路が背負う家事の負担、
「嫁」である路が家庭内で信頼を得ていく様子、娘さちの最初の夫にまつわる気苦労など)
猫の仁助も登場します。

日記のちょっとした記述から彼らの生活をあぶりだす様子がとても興味深いです。
また、路の人情の篤さ、それでも裏切られてしまう悔しさ、
それでもまた尽くす女性であったことを明らかにしています。

森田氏は、路が二分をもらった6日前に、
尽くしてくれた下女の「かね」の子が亡くなっていたことから
このかねのために用立てたのではないか、と推測しています。

残念なのは、この本が執筆されたのが、路女日記の下巻の出版前だったこと。
下巻の発行前に亡くなられているのですが、
もし下巻をご覧になれていたら路の人物像をさらに描きだしてくれたのにと思います。

路に関する項の最後を、森田氏はこうしめくくっています。

百四十年の昔、江戸の下町に生い育ちながら、やがて一代の作者・曲亭馬琴を扶けるまでに成熟し、
その遺志に従って家を守った健気な一人の女人、
法名・操誉 順節 路霜大姉の墓は、小石川台地と小日向台地を分ける茗荷谷の深光寺に在る。
(p171)



(2) 『馬琴の嫁』  群ようこ著(講談社 2009)

馬琴の嫁 (講談社文庫)

ブックデータベースより。
人気戯作者、瀧澤馬琴の一人息子に嫁入りしたてつ。
結婚早々みちの改名させられ、病弱な夫と癇性持ちの姑、
そして何事にも厳格な舅に苦労させられながらも、
持ち前の明るさと芯の強さで、次第に瀧澤家になくてはならない存在になっていく。
のちに「八犬伝」の代筆を務めるまでになる、馬琴の嫁の奮闘記。


路に関する資料は馬琴や路の日記ぐらいで少ないのですが、
こんな会話をしてこんなことを想っていたはず、
というのを森田氏と同じように遺された資料から読み解き、描かれた作品です。
真偽はおいといて、路の日記を先に読んでおくと、
このくだりを活かして群さんが想像をふくらませたんだということがわかって面白いです。
ひとつだけ違うのではと思ったのは猫の仁助が路の最期を看取るシーン。
私自身が日記を追ったところによると、
仁助は路が亡くなる随分前に姿を消してその後登場しないので、
路よりも先に死んでいるのかなと思うからです。

路の晩年~最期の様子がわかる『瀧澤路女日記』下巻が出版物として世に出されたのは2013年。
ですので、群さんは嘉永6年までの日記(2001年に刊行)を読んで、
それ以降の晩年は想像を膨らませて執筆されたのかしらと思いました。


(3)『ゆすらうめ 江戸恋愛慕情』梓澤要著(光文社 2009)


ゆすらうめ―江戸恋愛慕情 (光文社時代小説文庫)

ブックデータベースより。
路は夫に先立たれ、二人の子供と舅である滝沢馬琴と暮らしている。
目の見えない馬琴は『南総里見八犬伝』の口述筆記を路にさせていた。
ある日馬琴の古くからの知人、幸右衛門が訪ねて来た。
庭で熟していたゆすらうめの実を供すると、
幸右衛門は本所にあった小料理屋での出来事を語り出すのだった(「ゆすらうめの家」)。
江戸に生きる女たちの恋愛を描いた連作短編集。


この作品は口述筆記で馬琴を助ける路の設定を使いながら、
そのあとはスピンオフのような作品。
路のまわりの架空の江戸の人物が次々登場するオムニバス作品です。
江戸の町で暮らす人々の日常を描いた時代小説といえるでしょう。

----------------------------------------------------------------
路の日記がすべて刊行されたのが2013年。
それ以降に出された作品はまだありません。
路の日記上下巻を受けて、あらためて、路の生きざまが作品化されたらいいな~と思います。

映像にするとしたら、イメージは檀れいでしょうか。
その10)にもあるように、路は色白、小柄、美人。踊りが得意な女性だったようです。
そして馬琴を助けながら、ぐんぐん筆力をあげた聡明さ、家族を支える芯の強さを持った女性。
檀れいがぴったりかな~と思います。

滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら
雪の結晶INDEX(全般)はこちら

2014年8月 5日 (火)

リバティの2014年秋冬追加柄、フローラルイヴ、美しいです

一目ぼれして買ってしまいました。

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2014年8月 2日 (土)

雪の結晶番外編/滝沢路の日記シリーズ(その10)路の家族のその後

『曲亭馬琴日記』別巻 柴田光彦編(中央公論新社/2010)

には馬琴の日記の総索引のほかに
馬琴の日記の中から火事の記録だけをピックアップしたもの、
滝沢家訪問往来人名簿など様々な資料満載です。

滝沢家関係の系譜も記載されています。
これは、関連人物の生年月日、簡単な略歴、享年などが箇条書きで記されている、
非常~に事務的なもので、決して感情を湧き起こすような書き方ではないのですが、
路(みち)の日記を追ってきた後にこの系譜を見ると、
あら不思議!箇条書きを読むだけでじ~~~んと来るのです。

とりわけ馬琴のひ孫にあたる
倉太郎(そうたろう/改名後は幸次郎)の項には。

倉太郎が手を焼かせた子供であったことは(その6)でご紹介した通りです。

路は安政2年12月29日の日記で、成年した倉太郎にこの日記を見せ、
親がどれだけ倉太郎に尽したかを知って親孝行しなさいと書いています。

成年した倉太郎はこの日記を見てどう思ったかが気になっていました。
「わしは、小さい頃こんなに手を焼かせる子供だったんだ。申し訳ない」
と気恥ずかしくなったでしょうか。

また、倉太郎の孫やひ孫たちが、
「あの分別たっぷりで僕たちを厳しく叱る倉太郎おじいさまもこんな駄々っ子なクソガキ時代があったんだ~」
と驚いたでしょうか。
子孫たちは出版物として世間に公表されたこの日記をどんな気持ちで読んだのだろう。

そんなことを思いながら、この別巻の系譜を辿ると・・・。

倉太郎の記述は以下の通りです。(p445)

倉太郎 嘉永6年(1853年)2月6日生れる。安政3年、
幸次郎と改名。文久2年(1862年)4月14日没。
享年10。法名、了幻童子。墓地、深光寺。

わずか3行箇条書きで記されるのみ。

10歳で亡くなっていたのです。
成年になって路の日記を読み返すことはなかったのです。
おじいさんになって、孫たちが「倉太郎じいさんにもこんなクソガキ時代があった」
って驚かれることはなかったのです。

(下記にご紹介する『思ひ出の記』滝沢橘著によると死因は疱瘡)

しんみりしました
そして、こんな箇条書きの三行に哀しくなる私自身にびっくりすると同時に、
路の日記を読むことで、会ったこともない倉太郎の存在を私が大きく感じていたことがわかりました。

(小説を読んで思い入れ持っていた登場人物が亡くなってしまって喪失感を感じるのに似ています)。

これは、路が滝沢家にまつわる人々を存在感を感じさせる筆力で書きあげていたことの証でしょう。

さて、路の他の家族のその後はどうでしょう。

『曲亭馬琴日記』別巻の系譜と、
倉太郎の妹、橘(きつ)執筆の『思ひ出の記』(『滝沢馬琴-人と書翰- 木村三四吾著作集Ⅱ』(八木書店 1998)
から抜粋してまとめてみます。
直接の引用は青文字。私によるまとめはスミレ色

【路(みち)】(馬琴の長男の嫁)
→私メモ/路の没後生まれた橘は路の顔を知りません。
「おみちさん」と呼び、まわりから聞いたことを『思ひ出の記』に綴っています。

色白。小柄。きれいな人。踊りも三味線も達者。
夫(宗伯)が若死にで27才で未亡人となるも、
夫の死にぎはの言葉を守って、老いた舅(私メモ/馬琴のこと)と子供に仕へてくれた事は、
此の家のあらん限りは、代々忘れてはならない大切な事だ
と子孫に思われている。

長女つぎを養女に出したので、次女さちを溺愛した。
つぎは養女になっても生涯、路を慕っていた。

53歳で亡くなる。


【さち】(路の娘。馬琴の孫)

色が黒かったが、目鼻、口元の美しい女性。

父親琴嶺にとても愛されていた。
馬琴は「さちは嫁にやるな。婿をむかえよ」と言っていた。

派手でにぎやかな人。茶目っ気がある。
わがままに育ち、何ごとも雑。路が亡くなるぐらいまで反物を着物にしたことがなかった。

吉之助と離婚後、大友氏と再々婚。59才で亡くなる。


【吉之助】 (路の娘さちの2番目の夫)

美男子。小心もの。妻のさちの些細なことに嫉妬。

吉之助が、さちとさちの姉の藁人形を用意し、釘を打って呪っていたことがあった。
さちがそれに激怒し、離婚することになった。

維新後、横浜の税関に勤務。離婚後も滝沢姓を名乗ったまま、てると再婚。


【幸次郎(倉太郎)】(さちの長男。橘の長兄。馬琴のひ孫)
→私メモ/橘が2歳の時に亡くなっているので橘は倉太郎の記憶がありません。

倉太郎については重い疱瘡でなくなったことが記されているのみです。


【力次郎(力三郎)】(さちの次男。倉太郎の弟。馬琴のひ孫)

やんちゃ。妹の橘をよくいじめた。
寝相が悪く、母のさちが木の枕を頭に結び付けてねかしたところ、
夜中に枕が頭の上にのっていたことがあった。


吉之助・さちの離婚後、8歳の時に父吉之助に連れ出され、その後村田姓に。

蕎麦屋の商売につく。長女はるが生まれるとまもなく肺病になり、村田力三郎として亡くなる。


【橘(きつ)】(さちの長女。倉太郎の妹。さちの姉のつぎの養女となる。馬琴のひ孫)

27歳の時に結婚。3男をもうけるも離婚。71才で亡くなる。
------------------------------------------------------------------------------
信心深くて、ご先祖さまを敬いさまざまなお供え行事をしてきた路一家。
かなり波乱万丈だったんだなと思います。

それでも「滝沢家」は橘の血筋によって受け継がれているのです。

家系図を見ていただくと。
2014052takizawake_kakeizu
赤で囲ったのが馬琴の血をひいている人物です。

馬琴の血筋のものに子供がいない時は、同じく血筋のものを養女に迎え、
そして橘が3人の男子を産み、滝沢家が続いていったのです。

馬琴→長女さき→養女つぎ(孫)→養女橘(ひ孫)

           ↑姪を養女に   ↑姪を養女に



家系図は私が起こしたものです。
クリックしていただくと拡大します。
充分検証して作成した家系図ですが
不具合があれば修正します。
転載はご遠慮ください。

滝沢路の日記シリーズINDEXはこちら

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emi

  • プラネタリウムでのヒーリング番組制作に携わった後、現在は 土井利位侯の「雪華図説」をライフワークとして調べ中の図書館LOVER。月に魅せられ、毎日、月撮り。月の満ち欠けカレンダー(グリーティングライフ社)のコラムも担当。              興味対象:江戸時代の雪月花、ガガーリン他。最近は、鳥にも興味を持ち始め、「花鳥風月」もテリトリーとなっています。   コンタクト:各記事のコメント欄をご利用くださいませ。コメントは私の承認後、ブログ内に反映される仕様にしています。公表を希望されない方はその旨をコメント内に明記くださいますようお願いいたします。
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