一番復活してほしい江戸時代の行事「二十六夜待ち」(その3)江戸ガイド本にも二十六夜は登場
(その3)では、広重以外の作品や江戸時代の文献をご紹介します。
江戸時代にはテレビの情報番組もなかったのに、人々は二十六夜待ちの一押しスポットを知っていました。
江戸の名所ガイド本がいくつも出版されていたのも大きいでしょう。
これらが東京ウォーカーならぬ『江戸版ウォーカー』の役割を果たしていたのですね。
※ただし書き
「廿」は「二十」のことです。所蔵館の作品がリンク切れになりましたらトップページから作品名で検索していてください。
制作年は所蔵館によってまちまち(版違いなどで)です。主なところのものを挙げました。
※二十六夜待ちに関する江戸時代の文献。この記事をアップした9月4日以降後次々出てきます。
その都度、加えます。
すでに時系列で丸数字によるナンバリングしているので、この丸数字は固定させて、と
の間の時期の追加資料は
-5、
の前の時代のものは
-2などのようにナンバリングを振ります。
≪絵本江戸みやげ≫西村重長、鈴木春信画
1768年(宝暦3年)版かと思います。
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551549/28
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
私メモ/くずし字があまり解読できないのですが、高輪の海辺の風景に「二十六夜」の文字が見えるので、少なくともこの頃から高輪=二十六夜待ちが定着していたことが推測できます。-5≪天慶和句文(てんけいわくもん)山東京伝(さんとうきょうでん)著 北尾政演(きたおまさのぶ)画≫
1784年(天明4年)
本で閲覧
『山東京伝全集 第一巻』山東京伝全集編集委員会編(ぺりかん社 1992)
p140
『天慶和句文』は天文解説書「天経惑問」のもじり。
大人向けの読み物、黄表紙です。
お月様は天道様の息子で20歳。
若いけれど風流で詩歌俳諧にばかり心を寄せるという設定。
画像は『山東京伝全集 第一巻』(ぺりかん社)より転載。
ここに注目すべき記述が。
廿六夜には、高輪で、ちとお冴へなされませ
というセリフが出てくるのです。
画像の赤い矢印で示したところですね。
廿六夜には
高輪で
ちとおさへ
なされ
ませ
と書かれています。
ちなみに「冴え」とは、遊興や酒宴のことです。
このセリフからすでに天明時代に、七月の二十六夜待ち、高輪で遊興に盛り上がる人が多かったことがわかります。
私メモ/北尾政演は山東京伝の画号なので同一人物です。≪絵本東童郎
(えほんあずまわらは)≫
歌川豊広
1804 年(享和4年)
江戸東京博物館所蔵
閲覧できるサイト
東京デジタルミュージアム(ttp://digitalmuseum.rekibun.or.jp/)
→「所蔵品検索」で「絵本東童郎 (二)」で検索。
私メモ/海の眺望がすばらしい座敷で芸者衆(でしょうか)をはべらせて
どんちゃんしている楽しそうな男性が印象的です。
絵に書かれている言葉は
七月廿六夜 今宵高輪乃茶屋に 男女あつまり 月の出るまで 唄ひ舞ふ 芸者多し
です。-5≪卯花園漫録(ぼうかえんまんろく)≫石上宣続(いそのかみのりつぐ)著
1807年(文化6年)
本で閲覧
『日本随筆大成 第2期 23』日本随筆大成編輯部編(吉川弘文館 1974) p11
二十六夜の月に見えるという「三尊」について書かれています。
七月二十六夜は、三尊の仏来迎ましますとして、貴賤おしなべて念珠を手にかけ、月の出るのを拝す。其人々に問へば、少し心ある人は来迎はおがまずといふ。さも有べし。廿六夜丑の刻過ぎの月は、出汐の事なれば、たれ人も宵よりまちまちし、ねぶたき目をして、下弦の月の、横雲にちらちらと、余光のさすを見付、一尊は高く二尊は低くおがまれ玉ふなど云ヘリ。七月廿六夜にかぎり、三尊に見へ玉ふもいぶかし。不断の月の出は何尊なるや。又富士山へ登りし人に、日の出の事を尋るに、皆三尊也といふ。是も高山にて見る日の出は、外に障るものなく、東を近く見るゆゑ、是も横雲の間々へ余光のつよくさすを、三尊とも拝む成べし。月も三尊、日も三尊と思ふもおかし。惣じて日月星などの論説は別にす。
私メモ/興味深いです。廿六夜の月には三尊が現れると当時の人がレジャーとしてではなく、念珠を手にかけ真剣に月の出を待ったことがわかります。
また、中には三尊が見えるということをいぶかしがっている人もいたこと、富士山での日の出でも強い余光を人々が三尊と拝んでいることなどが冷静な目で記されています。≪江戸名所図会≫十返舎一九作・画
1813年
文化10年
閲覧できるサイト
国立国会図書館
デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533893/11
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
私メモ/上野、日暮里etc.江戸の名所の一つとして高輪が出てきます。
海が見渡せる座敷で三味線を弾く芸者や男性の遊興ぶりがわかります。
わかりづらいかもしれませんが、右から二行目に「廿六夜」の文字が。
アドバイス受けての解読ですが
高輪乃 廿六夜のさかもりに 月も一盃 あかる海つら 花笠 和廣
二階からたかくとまりて みゆるなり 沖行鳥を たかなハ乃茶屋 遠唐沖人 と書かれているようです。≪江戸自慢 洲崎廿六夜≫歌川 国貞(初代)
1819~21年(文政2~4年)
千葉市美術館所蔵
閲覧できるサイト
千葉市美術館所蔵品検索システム(ttp://www.ccma-net.jp/search/)
→「江戸自慢 洲崎廿六夜」で検索。
私メモ/たらいで子供を洗っている女性の背景にある小さな絵(駒絵)が
二十六夜待ちの人気スポット洲崎の風景になっています。
U字型の細い月が海から昇っている様子が描かれています。≪江戸名所花暦≫
岡山鳥著・長谷川雪旦画
1827年(文政10年)
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174161/238
本で閲覧
『新訂江戸名所花暦』市古夏生・鈴木健一校訂(筑摩書房 2001)p158~161
私メモ/「品川」の項で記述があります。
この地は高輪のほとりよりしてすべて海上の見晴らしなれば、月の出はいつにてもよし。また七月二十六夜には雅俗打ち交りて、月の出の遅き
ゆゑにさまざまに興じて、月の登れるを待つなり。その賑はへることひとかたならず。この夜は処々に月待あり。
湯島天神の台、九段坂のうへ、日暮里諏訪明神の境内、その他なほありといへども、品駅(しながわ)をもつて当夜の第一とす。
私メモ/とても興味深い記述です。高輪がNo.1スポットとして、他に湯島、九段坂などが挙げられていますね。また、月を待つ間をさまざまな遊興で盛り上がっていたことがわかります。≪江戸繁盛記≫寺門静軒著
1832~36年(天保3~7年)
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2593574/13
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2593574/14
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2593574/15
私メモ/
「品川」の項で
天下第一の巨港
や
賞月七月(は)則拝月(二十六夜)八月は則玩月(十五夜)
の記述があります。
「二十六夜」の項で
天等更深益来涼露簾捲盡酔風觴一欄共倚両般意客遅月昇娘遅即。
の記述があります。
※レ点他は省いています。觴はさかずきのこと。≪江戸名所図会≫斉藤月岑著・長谷川雪旦画
1834~36年(天保5~7年)
・「高輪海辺 七月二十六夜待」というタイトルの絵が掲載されています。
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176676/143
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
本で閲覧
『新訂江戸名所図会 1』市古夏生・鈴木健一校訂(筑摩書房 1996)p316~317
私メモ/水平線に光が見えるということは今まさに月が昇ろうとしているところなのでしょうか。となると夜中のはずですが、非常に賑わっています。
舟に乗っている人も多数。「月待ち」と言いながら、月が昇る方向を見ていない人が多いような・・・。
・高輪大木戸の説明もあります。
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176676/140
本で閲覧
『新訂江戸名所図会 1』市古夏生・鈴木健一校訂(筑摩書房 1996)p311
高輪大木度 田町より品川までの間にして、海岸なり。(私による略)
後には、三田の丘綿々とし、前には、品川の海遙かに開け、渚に寄る浦浪の真砂を洗ふ光景など、いと興あり。
私メモ/三田の小高いところからも海が見えたんですね。≪東都歳時記≫斉藤月岑著・長谷川雪旦・雪堤画
1838年(天保9年)
「湯島二十六夜待ちの図」が掲載されています。
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
添えられた句は秋涼し 二十六夜の月の色 霜崎
長文の説明があります。
廿六夜待 高きに登り、又は海川の辺酒楼等に於て月の出を待つ。
左に記せる地 は、分て群集する事夥しく、宵より賑へり。
芝高輪・品川此両所を今夜盛観の第一とす。江府の良賎兼日より約し置て、
品川高輪の海亭に宴を儲け、歌舞吹弾の業を催するが故、
都下の歌妓幇簡女伶の属 群をなしてこの地に集ふ。
或は船をうかべて飲宴するもの尠からずして、弦歌水 陸に喧し。
築地海手深川洲崎、湯島天満宮境内、飯田町九段坂、日暮里諏訪ノ社辺、目白不動尊境内、
西南に向て月を看るに便りあしけれど、此辺の輩は集へり。
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369318/17(湯島の絵)
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369318/16(上記の説明文)
私メモ/
ちょうど左手に昇ってきた月が描かれていますが、月齢26ではなく半月ぐらいの形ですね。
すずなり状態の人たちの中には子供の姿もあります。みんな手を合わせて拝んでいます。
夜中にこれだけの人が!と思ってしまうのですが、現代の私たちにとっての
「初日の出」のようなものだったのでしょうか。
月の少し右手に建物の屋根が見えますが「浅草」と書かれています。湯島から浅草寺の屋根が見えたのですね。
文章の中の「西南て月を看る」が謎です。
二十六夜の月は深夜に東から昇り、東南の空に移った頃に朝を迎えて見えなくなってしまいます。
なぜ<西南の方角に人が向いていた>の記述があるのかわかりません。
さて、眺めのいい高楼に「松琴亭」の名前がありますよね。
当時の江戸の有名料亭のようです。
松琴亭に関しては興味深い作品あります。
『江戸高名会亭尽』歌川広重
1838~40年(天保9~11年)
江戸東京博物館、ボストン美術館、
メトロポリタン美術館↓ほか所蔵
ボストン美術館所蔵のものはこちら
作品タイトルは「Yushima : The Shokintei」
私メモ/二十六夜を描いた作品ではありませんが、松琴亭がいかに見晴らしのいい場所にあったのかがわかる絵です。≪十二ヶ月の内
文月二十六夜待≫
歌川豊国(三代)
1854年(安政元年)
閲覧できるサイト
国立国会図書館デジタルコレクション
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307008/1
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307008/2
ttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1307008/3
↑国立国会図書館デジタルコレクションより
私メモ/女性3人がカニ料理などを食べています。
いわゆる女子会ですね。
二十六夜なので月の形はU字型の三日月のはずなのですが、なぜか満月のようなものが見えます。
「江戸食文化紀行 NO89 二十六夜待ち」(ttp://www.kabuki-za.com/syoku/2/no89.html)の松下幸子氏による料理の解説が面白いです。≪江戸府内絵本風俗往来≫菊池貴一郎 (芦乃葉散人/歌川広重四代) 著
明治38年。
中編 巻之四の七月の章、「二十六夜」の項では「二十六夜まち」の絵が掲載されています。
閲覧できるサイト
近代デジタルライブラリー
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857 から
コマ番号45を選択
芝愛宕山上 廿六夜まち
の文字が見えます。
人々が真剣に海上を眺めています。
昇ってくる月をみつけたのでしょう。立ち上がって指を差している男性がいます。
愛宕山は「山」の名の通り小高いところにありますが、海が見えたというのは驚きです。
↑近代デジタルライブラリーより
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857 から
コマ番号44を選択
に、二十六夜待ちの詳しい説明があります。
本では『絵本江戸風俗往来』菊池貴一郎著(平凡社 1969)が出版されています。
こちらのp149~151から説明部分を引用します。
二十六夜
この月二十六日の夜を二十六夜といいて、
今夜の月の出は三尊の姿に上天すとかいいて、
この三光を拝さばやと人々高台の地、海の眺望をえらみて相集り、時刻を待つ。
その地は、築地海手・深川洲崎・湯島天満宮の境内・飯田町九段坂上・日暮諏訪神社の台・
目白不動尊の境内・芝浦の海岸、
別して繁昌なるは高輪海岸より品川なり。
こは、年中この地第一の賑わいなりしは、天保以前のことなりとかや。
その以来は掛茶屋に月待の客来たり、
茶菓酒肴のみ にて、鳴物手踊・にわかなどの催しは絶えてなし。
品川の妓楼もまた平生と同じくして、客人の繁きのみにて、昔の全盛なる賑わいは全くなし。
また芝なる愛宕山の掛茶店は平日は日暮迄にて、茶汲み女も皆引払いしを常とす。
しかるに当夜に限り夜更くる迄客人を待ことを許されて、軒に提燈など点じて景気を粧うより、
この夜客足多く、武家僧侶の族は多くは当山にて月の出しおを待ち、詩歌・俳句を弄びて楽む。
この近辺なる軍談の講釈席・落語鳴物の寄席等も、月の出る迄演ずること年々同じ。
しかるに天保以前の光景は、いよいよ失せたりと当時の老人語りける。
私メモ/この文献を読むと、二十六夜待ちは天保末以降はすたれていったように読み取れます。
が、歌川広重の絵では天保後半~安政の二十六夜待ちの絵がいくつもあります。
実際はどうだったのでしょう。
『江戸府内絵本風俗往来』は菊地貴一郎が自分が見聞した江戸の行事風俗を記した本ですが、
貴一郎は1849年(嘉永2年)生まれ~1925年(大正14年)没。
天保、弘化は生まれておらず、嘉永、安政もまだ幼少の頃。
「然るに天保以前の光景はいよいよ失せたりと当時の老人語りける」と記しているように
天保以前との比較は伝聞によるものなのですね。
----------------------------------------------
二十六夜に関しては下記の文献、記事にも紹介されています。
『浮世絵に見る江戸の歳時記』佐藤要人監修 藤原千恵子編集(河出書房新社 1997)
『浮世絵に見る日本の二十四節気』 藤原千恵子編集(河出書房新社 2010)
『江戸年中行事図聚』三谷一馬著(中央公論新社 1998)
雑誌『星ナビ』2014年9月号
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