月にちなんだ「二十三夜」という地名を浦和に発見
バスを利用していたら「二十三夜」という停留所が。
浦和の太田窪あたりです。
「二十三夜」は月待ち行事の一つ。
旧暦二十三夜の真夜中に昇る月の出をみんなで待って、拝んで、
ご利益を願いました。
各地に、この場所で二十三夜の月待が行われたという碑が残っていますが、
地名が残っているのは珍しいと思います。
うれしくなって途中下車しました。
(以下、画像はサムネイルのため小さく不鮮明。
お手数ですがクリック&拡大でご覧いただけましたら)
「二十三夜」という停留所。
停留所すぐ近くに、二十三夜塔がありました。
二十三夜塔の由来が書かれています。
今から凡そ六百年前遠く室町時代初期、当時この地は伊勢の神領地であり、
武蔵野は安住の郷域であったが、源氏の将扇谷上杉定正一族の勢力争いに端を発し、
小田原の北條氏泰らが加わりここに果てしない戦禍が広がり、
住民の多くはその被害はかりしれず、やがて農兵の徴発となり人々は恐怖の果てにおかれたのであります。
この頃当地方に起こったのが月待ち(さんやまち)信仰であり、
後に「二十三夜まち」講として行事化されたと伝えられます。
即ち戦乱常なくその家族の生死すらわからぬ住民はこの信仰によって安心立名、無事息災を
勢至菩薩は「月天使」をして観音経を唱え祈願したもので、当時ここに住民の祈念堂があり、
今から約百五十年前(天保三年)老朽により廃堂となり本石塔を建立したとつたえられる。
と書かれています。
室町時代の頃から安寧祈願のために、二十三夜まちがおこなわれたけれど、
天保3年に廃堂になってしまったのですね。
天保3年は1833年ですので今年2022年からさかのぼると、189年前になりますね。
レファレンス協同データベースのこちらでも解説されています。
天下泰平 二十三夜供養塔 國土安全
と彫られているのでしょうか。
すぐ下には観音講中と彫られていました。
右脇の石には。
昭和42年未歳 二十三夜塔再建記念碑
実際に月待をした場所は少し離れているのかわかりませんが、
この場所も奥が少し土地が下がっていて、
見晴らしがいいことがわかります。
すぐそばの道。坂になっていて奥(東の方向)が低く、
東側(月の出)の見晴らしがよかったことが推測されます。
満月のような黄色い信号と一緒にパチリ。
自治会にも名前が。
エリアの統合などで古い地名がなくなってしまう例は数多くありますが、
二十三夜の地名が太田窪にずっと残ってほしいです。
川崎市の二十三夜塔についてはこちらに。
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